2007年05月16日

参府団江戸到着

江戸時代中期の江戸

 今回ご紹介しているのは、 スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の街道の例
douro.jpg

引用開始
 品川と高輪は、将軍の住んでいる江戸の町の二つの近郊地である。前者は、その起点(日本橋)からまるまる二里はあり、海岸に沿っている。我々は品川で一時間たっぷり休み、軽く飲食物をとって元気を回復し、美しい眺望を楽しんだ。
 江戸はこの国最大の、そしておそらく地球上最大の町であり、またきれいな港があった。港は非常に浅くなっており、泥土に覆われている。最大の船舶は、しばしば町から五里離れた所に投錨する。そんなに大きくない船舶は二里の距離に、そして小船舶ならびに小舟は何百艘にものぼり、それぞれの大きさや重量によって互いに町の方へ何列にも並んでいる。このようにして町は、他の地域から当地へ輸送される商品の通路を完全に遮断することなしに、海からの敵の襲撃に十分備えているのである。

 我々は、町や港やその周辺を非常に物珍しく眺めたが、同じように日本人は我々を物珍しく眺めたのであった。彼らは噂を聞いてここにどっと集まり、我々の乗り物のまわりを囲んだ。これら日本人のなかには、何人かの身分の高い婦人がいたが、彼女らはその乗り物をここへ運ばせたのである。そして我々が何回か簾を降ろすと、婦人たちはかなり苛立つように思われた。この我々のまわりを囲んでいる地上に置かれた乗り物は、それだけで小さな村を作っているようであったが、この移動式の小さな家は、その後しばらくすると消えていった。

 ただ一本の通りからなる近郊地、品川や高輪を通り過ぎて,番人がいること、住民の数が増えたこと、そして運搬人の沈黙や一層しっかりした足取りから、私は首府に到着したことを感じた。まもなく長さ四十ファムン(約七十一メートル)ほどの橋、日本橋に着いた。国中の地方につながる街道は、ここを起点に測られている。町の入口にあるいくつかの番所を通過して、一時間あまり広い大通りを進み、我々外国人の定宿に到着した。そこは裏門から入り、狭い道を通って家の反対側の端に案内された。この宿泊所に初めて入った印象は、それが大きいとも快適であるとも思えるようなものではなかった。しかし一階上がって通された我々の部屋は、かなりこざっぱりとしたものであった。だが、はるか遠隔の大陸からやってきた使節の一人として私が期待していたほどには、立派ではなかった。

 広い一部屋が、客間、謁見の間そして食堂にあてられた。商館長には特に一部屋が、そして仕切ることができるもう一部屋が医師と書記官に当てられ、また小さな部屋が風呂と他のすべての個人的な便宜をまかなうものとして当てられた。当地滞在中、我々はここで満足せざるを得なかった。狭い道路に面した外の眺めにはたいてい男の子がおり、我々の姿をちょっとでも捕らえると、とたんにきまって叫びをあげた。そして我々を見ようと、向かい側の家の塀の上によじ登っていることも時々あった。・・・・

 街道では、いくつかの財政豊かな大きな藩や小さな藩の藩主らが、相応の随員を伴って幕府への毎年の旅をするさまを、実際に見ることができた。我々が出会ったうち、若干はすでにこの時期帰路に就いていたが、大部分は我々を通り越して行くものであった。前もってどこかの宿屋に到着し終えていない限り、我々は行列が通過している間、非常に身分の高い彼らを前にして立ち止まらざるを得なかった。そして随員が大勢いる行列と――とくにちっぽけな村しかなくて――そもそもそれほど快適ではない宿屋でくつろぐしかないような地点で出会うと、うんざりするような事態に巻き込まれてしまう。それは一度だけであったが、すでに部屋に入っていた宿屋を出て、町はずれの寺院に移らざるを得なかった。・・・・・

 この藩主の随員は、しばしば何百人の、最高千人から二千人の男からなり、彼らはきちんと秩序を保って行進する。その大量の荷物は、携帯するか馬の背に乗せて運ぶ。ある者は乗り物のずっと前を、またある者はすぐ前を、藩主の紋章と印を持って運ぶ。また通常は一、二頭のきれいな引き馬が前を行き、そして数人の者は、足に鎖を繋ぎ腕に乗せた狩猟用の鷹を一羽以上連れている
・・・・行列が進んで行く所には、深い沈黙が広がり、街道の人々は敬意を表して、地べたに頭をつけてひれ伏す。乗り物の運搬人は、主家を示すそろいの衣服を着ており、他のすべての物には主人の紋章がついている。彼らが我々を通り越して行くときは、通常は乗り物の簾が降ろされているが、一人か二人は、礼儀正しくそれを開けており、また通過するさい我々に挨拶までした。そして何人かの藩主は、自分の随員を遣わして我々の旅の無事を祈った。・・・・

 我々が通過してきたそれぞれの地方では、その境界近くになると、迎えの者が丁重に我々を出迎えて挨拶の言葉を述べた。しかし藩主の住居がある町を通り過ぎているにもかかわらず、この藩主を訪問するという許可を我々は持っていなかったし、また藩主が我々を訪ねることもなかった。・・・・すなわち、オランダ人がその地方の藩主と親交を結ぶことは、一、二の点で悪影響を及ぼすかも知れないということで禁じられていた。・・・・・
 しかし、予期しない極く珍しいことが起った。ある晩遅く、ある藩主が二人のお供だけで、まったくおしのびで我々の宿屋に訪ねてきた。そして十分に時間をとって、夜遅くまでいろいろな事柄について我々と話し合った。この人は礼儀正しくかつ非常に友好的であったが、同様にまた大変に好奇心に富んでいるようであった。我々が携帯し使用している家具のすべてを、非常に注意深く極めて入念に眺めた。そして話題はたんに日本に関することだけでなく、ヨーロッパのいろいろな事柄にも及んだ。

 この時期、雨天の日は数回あったが、しかしそう頻繁ということはなく、寒さは何とか我慢できた。・・・・だが素足やむきだしの頭をした日本人たちは、まったく無情な雨よりはむしろ寒さに強かった。雨が激しいときは、外へ出たがらなかった。さもなければ、旅では傘、笠そして雨合羽を身に付けた。雨よけには油を塗った紙が使われるが、そのような紙は、普通中国から当地へ持ち込まれる。帽子は円く鐘形状で、細い草を撚って作ってあり、極く薄く軽いもので,顎の下に紐で結ぶ。油紙の雨合羽はどんな雨もはじき、このうえなく軽く、ヨーロッパ人の衣服のように、雨で重くなるようなことはない。このような合羽を買うことができない貧しい人々は,一片の藁むしろ(蓑)を背中にかけている。それには表面が平らなものや、また毛のように藁の端がつき出てぶら下がっているものがある。
引用終わり
posted by 小楠 at 08:07| Comment(5) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
前回・今回の記事を続けて読みましたが、観察眼が鋭くておもしろいですね。
雑草の生えていない田畑は日本ならではのものなのですね。
外国人に好奇心を抱く男の子、そして藩主も!どなただったのでしょうね?
Posted by milesta at 2007年05月16日 16:32
 江戸という町は、大変綺麗な町であったそうですね。
 それにしても、良く見、良く描写しています。
 日本橋が基点の道程標は凄いですね。
 未だにそれが受け継がれているのもまた、凄いことですね。
 
Posted by tono at 2007年05月16日 16:43
milesta 様
ツュンベリーは植物学者だけあって、さすがにその方の観察もするどいですね。
当時の日本人、子供も女性もやはり外国人は珍しかったのでしょう。

tono 様
当時から幕末、明治と、江戸は世界の大都会という評価を書いている外国人が多いですね。道沿いに排水溝が整備されていたのには驚きですが。
Posted by 小楠 at 2007年05月16日 18:55
品川・高輪・芝、そして最終は日本橋。ここに宿を取った。当時既に消防署(火消し組)・警察(十手)・裁判所の片鱗が確立されていたんだから凄いですね。
そうですか、日本橋ですか。古い町の面影が今でも見られます。古い町名をどんどん今風にした小役人の罪は重いです。小伝馬町・伝七通り・茅場町・相生橋・・・あのあたりで仕事をしたことが有りました。今は日本橋何丁目なんて風情の無い名前になってんでしょうかね、きっと。
Posted by k at 2007年06月01日 21:28
ケイ様
仰る通り、地名にも歴史的な意味があるのですが、それが全く判らないような変更を平気でやりますね。
まだ以前の地名とその由来を知っている人々がいる間に、旧地名に戻す運動なども必要かも知れません。
祝日にしてもそうですね。
Posted by 小楠 at 2007年06月02日 07:54
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