2007年05月15日

江戸参府の道中記2

江戸時代の大阪から京都、東海地方へ

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の「のりもん」です。
norimon.jpg

引用開始
 4月9日、大阪と都[京都]間の行程は十三里もあったので、我々は未明のうちに出発しなければならなかった。
 したがって我々は夜明け前、早々に起された。コーヒーを一杯のみ、朝食にサンドイッチを準備して旅を続けた。旅の間、先に立つ日本人はほとんど間断なく歌をうたい、たくさんの松明で朝まだきの暗さを照らした。
 ようやく二里進み、守口という大きな村に到着して、我々と運搬人はしばし休憩した。その後三里進んでもっと大きな村、枚方で再び休み、そして軽い飲食物をとった。その後一里先の休憩所の淀まで行き、さらに一里進んで伏見で遅い昼食をとった。淀は小さいがきれいな町で、この上なく水か豊かである。・・・・伏見は一村落に過ぎないといえようが、長さは三里にも及んで幕府の首府、都[京都]にまで達しており、そのため都の郊外とみなすことができよう。

 その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちよい旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。そして我々は長い旅を通していくつかの村を通過したが、村は尽きることなく、一つの村が終わると、そこでもう一つの村が始まるのであり、また村々は街道に沿っていた。
 今日、私は初めて道路でいくつかの車を見ることができた。それは都とその周辺で使われている唯一の車輪の乗り物で、それ以外の地方では使われていない。この車は低い小さな三輪車であった。二つの車輪は通常の位置に、そしてあとの一つは前方についていた。その車輪は全片、木を切って作ったものである。車輪の摩滅を防ぐために、縁の周囲を綱またはそれに類したもので巻いてあった。町近くまたは町中では、車はもっと大きく不恰好で、時に二輪の車もあり、その前方を牛が曳いていた。またいくつかの車は、ヨーロッパのものと同様、轂(こしき)とスポークを備えていたが、留め金はなくもろかった。この車は道路の片側しか通行を許されていない。そのため、その側にはたくさんの車が往来しているのが見られた。またそこでぶつかり合わないように、午前中に町を出て行き、午後に町へ帰ってくるという順序になっていた。

 どの村のどの宿屋でも、米粉を煮て作った緑色や白色の小さな菓子が売られていた。旅人やとくに乗り物の運搬人はそれを買って、お茶を飲みながら食べた。お茶はどこでも旅人のために準備されている。・・・・・
 私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見出せないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。・・・・・

 都は国の最古の首府であるのみならず、最大の商業都市でもある。これは国のほぼ中央に位置していることによるもので、そのことは他にもいくつかの利点をもたらしている。町は一ドイツマイルほどの長さと半マイルほどの幅の平野に広がっている。ここには、最も主要な商人とならんで、大多数のそして最高の職人、製造人、名匠らが居を構えている。したがってここでは人が望むほとんどすべての物が販売されている。とくに漆器製品、金糸、銀糸を織りこんだビロードや絹織物、金製品、銀製品、銅製品ならびに赤銅製品、衣服や見事な武器である。日本の名高い銅は、鉱山で焼かれて溶融されたあと、当地で精製されて良質な銅になる。硬貨はすべてここで鋳造され、刻印を押される。・・・・・

 旅する者にとって、履物ほど何足も使い減らすものはない。その履物は稲藁を編んだものであり、丈夫ではない。価格もまたごく僅かで、銅貨(銭)数枚で買える。従って、一般に旅人が通り過ぎるような町や村は、たとえどんなに小さな村でもすべてこれを売っている。最もよく利用されている履物、もっと正確に言えば、藁のスリッパは、紐がない。しかし旅人が利用するものには、撚った二本の藁紐が付いているので足にしっかりと結ぶことができ、容易にぬげるようなことはない(草鞋)。そして足の甲がこの紐で擦れないよう、その上にリンネルの布が巻かれているものもある。
 街道では、旅人が擦りきれてずたずたになったとき履き代えるために、一足または何足かの草鞋を携帯しているのをよく見かける。・・・・
 馬用に小さい草鞋、すなわち藁のスリッパが、蹄鉄の代わりにどこでも使われていた。この草鞋は、馬が石で足を傷めたり、また滑り易い道で足を踏みはずすことのないよう、藁紐で足首にしっかりと結んである。・・・

 大井川は大きくかつ最も危険な川の一つである。この川は、他の川と同じく雨期には水嵩が増すが、それだけでなく海への流れが度を越して速い。そしてその時たびたび川底は、急流が山から運んでくる大きな石でいっぱいになる。
 幕府は、橋を架けることができないすべての大きな川では、旅人が小舟かまたは運搬人によって安全に渡ることができるよう配慮している。橋の利用も船の使用も不可能なこの危険な場所では、この配慮が倍加されている。そのためここには、川底を十分にかつ正確に知っているのみならず、旅人を安全に渡せるよう経験を積んだ大勢の男たちが、料金をとってその仕事にあたっている。料金は水嵩によって、いうなれば危険度そのものによって異なる。・・・・

 今日、水嵩は特に多くはなく、運搬人の膝上に達する程度に過ぎなかったが、それでも我々を乗り物にのせたままで運ぶという段取りは、ぞっとするほど恐ろしいものであった。何人かの男が、我々の乗り物の両側を支え持ち、そして他の者らは川の急激な流れで男たちが押し流されないよう、脇について介助しているのである。馬も同じようなやり方で、両側に何人かの男がついて運び、また我々の他の荷物もすべて同じように運ばれた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
大井川の川渡しは北斎の絵で見たことがあります。新幹線の無かった時代に何とも凄い道中ですね、しかもガイジンの身で。
道中に見たのは水田だったんでしょうね。水田は日本人の命です。ここから全てが生まれます、精神も生活も習慣も。その水田を潰せと言った小役人や政治屋がかつて居ました。命知らずのならず者だったんですねきっと(笑)。
Posted by k at 2007年06月01日 21:07
ケイ様
いつも有難うございます。
>>命知らずのならず者

憲法だけに止まらず、最も大切な主食まで外国頼みで平気な役人、政治家どもは
本当に見識が欠如していますね。


Posted by 小楠 at 2007年06月02日 07:44
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/3992455
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック