2007年05月14日

江戸参府の道中記1

江戸時代の旅人、小倉の宿と下関

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は出島
dejima.jpg

引用開始
 郵便車は国中どこにも見られないし、またほかに旅人を乗せる車輪の乗り物もない。したがって、貧しい者は徒歩で旅をし、そして車代を払える者は馬に乗って行くか、または駕籠か乗物(のりもん)で運ばれる。徒歩で行く者は草鞋を履いている。それは上革のない靴底のようなものであり、脱げ落ちないよう藁を編んだ紐で固く結ぶ。脚には脚絆をつけており、ふくらはぎの後部でボタンを掛けるか、または上部を紐で固く結ぶ。
 彼らはまた裾の長い着物の代わりに、上着[羽織]か、ふくらはぎまである亜麻仁のズボン[袴]を着用することがよくある。そして徒歩で行く武士は、この袴を腿の真ん中まで結び上げる。馬に乗って行く者は、始終、おかしな格好である。一頭の馬に何人も、たいていの場合家族全員が乗っているのをよく見かける。その場合は、主人が鞍の真ん中に乗り、足を馬の首の前まで伸ばす。鞍に取り付けられた片方の籠には妻が、そしてもう片方の籠に一人または何人かの子供が乗っている。そのような時は特定の人[馬子]がいつも馬の手綱を取って、前を歩いている。富裕な人は乗り物で運ばれるが、各人の階級によりその大きさと華麗さが異なり、したがって費用もまちまちである。最低のものは小型で、足を折って坐らざるを得ない。そして四方は開いており、小さな天井がついていて、二人の男が運ぶ。通常は「カゴ」と呼ばれる駕籠は、屋根がありそして四方は閉じられるようになっているが、ほとんど四辺形であり立派とは言えない。一番大きくかつ豪華なものは「ノリモン」と呼ばれ、長方形で、身分の高い役人が乗り、何人もで担ぐ。・・・・

3月9日・・・・・
 小倉は、国のなかでも大きな町に数えられ、広く貿易を営んでいる。・・・
 我々は小倉に到着する手前で、若君の名のもとに城からの使者二人の出迎えを受け、その後、町を通って宿屋へ着くまで付き添ってもらった。我々はここで丁寧に遇され、翌日の午後まで留まった。・・・・・
 ここでも他のどこの宿でも、我々はその家の奥の部屋を割り当てられた。そこは最も住み心地がよく、かつ一番立派な場所であり、常にたくさんの樹木、潅木、草本そして鉢植えの花のある大小の庭を望むことができるし、そこへの出口もある。またその端には客人用の小さな風呂場があって、好きな時に使える。・・・・・

 この国の建築様式は独特で変わっている。各家は相当に広く、木材、竹の木摺そして粘土からなる木骨造りなので、外部は石の家にかなり似ている。そして屋根には、相当に重くて厚い瓦が葺いてある。家は一つの部屋からなっていて、必要に応じまた好みに合わせて、いくつかの小さい部屋に仕切ることができる。それには、木枠に厚く不透明な紙を貼り付けた軽い仕切り[襖]が使われており、それを、その目的で彫られた床と梁に相当する天井の溝にはめると、らくらくとしかもぴったりと据えられる。
 旅のあいだこのような部屋は、我々や随員のためによくつくられた。そして食堂や他の目的にもっと大きな部屋が必要なときは、この仕切りはまたたく間に取り払われる。隣接する部屋の様子は見えないが、話していることはしばしば聞えてくる。

 日本人の家には家具がまったくなく、従ってもちろん寝台はないので、我々はマットレスや布団を、畳の上に直に敷いた。日本人随員も同じようにして休んだが、しかし枕はなく代わりに細長い漆塗りの木片を耳のあたりの頭の下に置く。
 彼らには椅子や机もないので、臀部の下に足を置いて柔らかい畳の上に坐る。また食事時には、蓋つきの漆椀に盛られた各人の料理は、専用の四角の小型木製の低い食卓[膳]に載せて指しだされる。このような姿勢で眠るので、日本人は髪が乱れることがなく、一瞬にして起き、そして一瞬にして衣服を身につける。すぐに着て帯を結べるのは、着物を掛け布団にしているからである。
 この町に滞在している間、我々は町の様子をもっとよく見たいと思ったが、町中を歩きまわる許可を得ることはできなかった。

 3月11日夕方、我々は帆掛舟で湾をわたり、三里離れた下関に着き、そこで一夜の宿をとった。・・・・・
 国中のあらゆる地域から、ここに集まってくる大勢の人々の群れからみて、当地での商取引や貿易の規模は非常に大きいと思われる。従ってまたここには、他地域から運ばれてきた数多くの品物が見られる。・・・・
 この町は、日本諸島の最大の島であり、首府が二つある日本[本州]の一端に位置している。また江戸までの街道も敷かれていたが、厄介な上に山道であるので、我々は利用しなかった。・・・・
 玉という長さ二ファムンもある紐のような物が丸く巻かれて、この国のほとんど何処でも売られていた。それは小麦粉または蕎麦粉から作られており、目方で売られる。蕎麦を原料としたものを、日本人は蕎麦切と呼んでいた。この紐は長短の長さに切って、汁につけて食べると味が良く、ねばねばしていて、完全に溶けることはない。そして満腹になる。汁のなかにこれと葱と魚のすり味[蒲鉾]を入れて煮た料理を煮麺[ニュウメン]と言う。そしてとうがらしと醤油を混ぜた汁につけて食べるものを素麺と呼ぶ。・・・

 3月12日、長さ90フィートの大きな和船に乗船した。この船は我々を兵庫まで運ぶために、オランダ東インド会社が毎年、四百八十レイクスダールを支払って借りているのであり、約百三十小海里の航海を、順風であれば時には八日間でなし遂げる。もう一艘の同じような船が、荷物の一部と我々の随員を運ぶために、我々の船に従った。・・・・
 投錨すると必ず、日本人はしきりに陸に上がって入浴したがった。この国民は絶えず清潔を心がけており、家でも旅先でも自分の体を洗わずに過ごす日はない。そのため、あらゆる町や村のすべての宿屋や個人の家には、常に小さな風呂小屋が備えられ、旅人その他の便宜をはかっている。・・・・
 他の村々と同様、ここでも非常に子供が多くて、我々が数回陸に上がったさいには背後で叫び声をあげた。注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。
 まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:45| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
毎回拝読。感謝します。長崎出身故
興味大です。前回は郷土の諫早の地名が出て更に感激しました。
 ところで他の外国人の著作にもありますが。
日本では子供が大事にされて虐待などないのが(西洋と比較)不思議との感想がありますが。逆に我々にはそれが不思議に感じます。子供は社会の共通の宝と当然思っていますから。
Posted by n.tanaka at 2007年05月16日 15:37
n.tanaka 様
コメント有難うございます。
郷里は諫早でしたか、230年も前の郷里を通っていたのですね。
画像があればよかったのですが。
子供については、来航者が同じように見ていますね。
よほどヨーロッパでは子供の虐待が多く見られたということでしょうか。
Posted by 小楠 at 2007年05月16日 18:50
医学博士の目から見ても、当時から日本人は清潔好きな民族だったことがわかりとても興味深いです。欧州人があまりにも不潔な民族だったために余計に清潔に感じたんでしょうね、きっと。彼らの大部分は生涯に亘って風呂に入らなかったらしいですから。
Posted by k at 2007年05月31日 20:37
ケイ様
>>当時から日本人は清潔好きな民族

日本人の清潔好きは、当時からほとんどの来航者がその記録に書いていますね。
風呂だけでなく、道路や家屋内の綺麗さ、懐紙のよさなど、よく見ています。
Posted by 小楠 at 2007年06月01日 07:42
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