2007年05月13日

江戸参府出発

長崎から小倉の江戸時代日本観察
 
 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
この描写が江戸時代中期の日本であることに驚きます。
画像はC.P.Thunberg
thunberg2.jpg

引用開始
 1776年3月4日、使節一行は出島を発って江戸参府の旅に向った。・・・この旅に参加するオランダ人は三名だけであった。それは、商館長として大使のフェイト氏、医師つまり商館付医師としての私、そして書記官のケーレル氏である。それ以外のおよそ二百人にも達する相当な数の随員[この人数は疑わしい。通常は60名ほどという]は、すべてが日本人であり、役人、通詞、従僕、召使いであった。・・・・・
 商館長の食卓に並べるオランダ人用の料理をつくるため、商館から日本の料理人二人が同行した。・・・・料理人は全行程にわたっていつも一足先に発った。それゆえ我々が昼食をとりに宿に到着するころには、料理はすっかり調っているのである。・・・

 商館長はもちろん、その医師と書記官も大きく立派な漆塗りの乗物(のりもん)にのり、旅をした。・・・・・この乗物という人の力で運ばれる乗り物は、薄い板と竹竿から出来ており、長方形で前面と両側面に窓がついている。・・・・茶は進行中も沸かされ、欲しくなればいつでも飲めるようになっている。しかしヨーロッパ人が、胃の緊張を解くこの飲み物をのむことはほとんどない。それよりは一杯の赤ワインかオランダのビールを好んで、乗り物にそれらの各瓶を用意し、細長いサンドイッチを二重に入れた長方形の漆器の小箱と一緒に前方の足元に置いた。・・・・

 身分の異なるさまざまな人々が、それぞれに異なる手段で進行しているこの大行列全体は初めて見る者には、立派にして秩序ある光景に映った。そして我々は至る所で、その地の藩主と同じような名誉と尊敬をもって遇された。その上、万が一にも我々の身に危害が加わることのないよう厳重に警護され、さらに母親の胸に抱かれた幼児のごとく、心配することは何もないほど行き届いた面倒をみてもらった。
 これは我々ヨーロッパ人にとって、この上ない大きな喜びであった。我々がやることは、食べ、飲み、自らの慰めに読み書き、眠り、衣服を着け、そして運ばれるだけであった。

 初日は、長崎から二里で日見を通過し、さらに一里離れた矢上へ、そこからなお四里の諫早へ到着し、そこで最初の宿を取った。
 我々は矢上で昼食をとった。そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた。・・・・用意された部屋に案内されると、食卓はすでに調えられており、そこで食前酒、昼食、コーヒーをとった。・・・・
 3月7日、この地方の首府である佐賀には藩主の住む城がある。城は濠と城壁に囲まれ、そして城門のそばには番人がいる。ほとんどの町がそうであるように、この町もきちんと整っており、真っすぐに広い道路が通っている。また何本かの運河に水を導き、町中を流している。・・・・
 
 3月8日、道中、大小いくつかの村々やかなり高い山々を越えて、十里先の飯塚まで進んだ。・・・・
 筑前地方の旅を続けたこの日は、藩主の遣わした役人一人が我々に随行した。彼は我々の無事の到着を祝し、藩内の道中はずっと付き添った。
 オランダ商館ではヨーロッパ人は日本人に軽蔑され、一般的にも日本人はすべての外国人を卑しいと見ているのだが、参府の旅の往復だけは特別である。我々はどこでも最高の礼をもって手厚く遇されるのみならず、日本人は毎年行われる参府の旅で、藩主に示すのと同じようなお辞儀をして我々に敬意を表する。
 
我々がある地方の境界まで来ると、そこの藩主が遣わした役人が常に我々を出迎え、藩主の名において、人手、馬、船その他のあらゆる必要な援助を申し出るだけでなく、次の境界まで付き添う。そこで役人は別れを告げ、次の者と交替する。身分の低い者は藩主に対すると同じように、卑屈なほどの敬意を我々に見せる。そして彼らのような卑しい者は、我々を正視できないほど非常に偉いと思っていることを示すため、額を地につけてお辞儀をし、また背を向けている者もいる。

 この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。そしてオランダ人の参府の旅と同様、毎年、藩主たちが参府の旅を行わざるを得ないこの時期は、とくに良好な状態に保たれている。道に砂がまかれるだけでなく、旅人の到着前には箒で掃いて、すべての汚物や馬糞を念入りに取り払い、そして埃に悩まされる暑い時期には、水を撒き散らす。
 さらにきちんとした秩序や旅人の便宜のために、上り旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮するまでに及んでいるのである。

 このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばである。日本では、道をだいなしにする車輪の乗り物がないので、道路は大変に良好な状態で、より長期間保たれる。さらに道路をもっと快適にするために、道の両側に潅木がよく植えられている。このような生け垣に使われるのが茶の潅木であることは、以前から気付いていた。・・・・

 里程を示す杭が至る所に立てられ、どれほどの距離を旅したかを示すのみならず、道がどのように続いているかを記している。この種の杭は道路の分岐点にも立っており、旅する者がそう道に迷うようなことはない。
 このような状況に、私は驚嘆の眼を瞠った。野蛮とは言わぬまでも、少なくとも洗練されてはいないと我々が考えている国民が、ことごとく理にかなった考えや、すくせれた規則に従っている様子を見せてくれるのである。
 一方、開化されているヨーロッパでは、旅人の移動や便宜をはかるほとんどの設備が、まだ多くの場所においてまったく不十分なのである。ここでは、自慢も無駄も華美もなく、すべてが有益な目標をめざしている。それはどの里程標にも、それを立てさせたその地方の領主の名前がないことからもわかる。そんなものは旅人にとって何の役にも立たない。
 距離はすべて、この国の一点から起算されている。その起点はすなわち首府江戸にある日本橋という橋である。
引用終わり
posted by 小楠 at 13:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B
この記事へのコメント
>それを立てさせたその地方の領主の名前がない

確かに、ヨーロッパに行くと、偉い人の名を冠した通りや広場などばかりですね。


Posted by milesta at 2007年05月13日 16:12
milesta 様
>>偉い人の名を冠した通りや広場などばかりですね。

そうですか、私、海外でもそのへんの事を興味持って見ていなかったので、知りませんでした。
今度から海外の国の道標にも気をつけて見てみます。


Posted by 小楠 at 2007年05月13日 22:14
藩主が遣わした役人が常に出迎え、道中はずっと付き添った。江戸からの里程標も完備していた。
当時既に江戸幕府は全国を完全に掌握していたんですね、凄いですね。
ずっと付き添っていたのは異人監視の意味も有ったのかもしれませんね。ちょっと前までの支那大陸の国内旅行を思い出しました。入国から出国まで省境界を出るとまた別の支那の添乗員がぴったり付き添ってガイジンを執拗に監視しました。今はもうず〜っと緩やかになりました。
Posted by k at 2007年05月31日 20:17
ケイ様
>>異人監視の意味も有ったのかもしれませんね

本当はこれが主たる任務だったようです。特にキリスト教関係の書とか聖像とかの取締りと、密輸品の売買それに、途中での逃亡を防止するのが目的でしょう。
Posted by 小楠 at 2007年06月01日 07:34
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