2007年05月11日

南京からの兵士の手紙

陥落直後の南京からの手紙が語るもの

「南京『事件』研究の最前線」平成19年版という本の中に、陥落間もない南京から、西住小次郎大尉と山田博治伍長の肉親に宛てた私信他が掲載されています。
 西住大尉は久留米の戦車第一連隊の小隊長として支那事変に従軍し、昭和十三年五月七日に徐州会戦で壮烈な戦死を遂げられています。大尉は戦死後で、南京当時は中尉でした。
 山田伍長は福井県生まれで、南京一番乗りの脇坂部隊に従軍したあと、昭和十三年八月二十七日「江西省瑞昌県君山」の戦闘において頭部に銃弾を受け、二十六歳で戦死されています。
 この手紙から、中国が言う所謂大虐殺真っ最中の南京が想像できるでしょうか。じっくり読んで見て下さい。
nankinletters.jpg

西住中尉の手紙
引用開始
[1]第一信
西住千代様
軍事郵便 親展 上海派遣軍司令部付 細見部隊高橋隊 歩中尉
十二月二十六日 
西住小次郎
 当地も大分寒くなり、朝など真白に霜が置く様になりました。
其の後、皆様、御変わりありませんか、御尋ね致します。
年内も後数日となり、ご多忙の事と存じます。今、明日は餅搗き位かも知れんと想像致して居ります。
 当地に居るとさっぱり年末の様な気が致しません。猛烈な迫撃戦で手紙とか小包とか、一向遅れて到着しません。何時か腹巻、靴下を送ったとの事でしたが、まだ到着して居りません。其の内に手紙などもどんどん来るようになりましょう。
 十二月十二日、南京に到着以来ずっと南京城内に居ります。
 南京は敵の首都だけに、東京程はありませんが立派な町です。建物と云い、道路と言い、立派です。又、附近には所謂紫金山、其の他の山々、玄武湖等もあり、風光も仲々いい様です。住むのにもよさそうな所です。

 今、我々の居る所は中央大学とて排日教育最も盛んだった大学です。立派な建物です。一部爆撃された所もありますが、部屋など立派です。今は内地の兵営以上にきちんとした生活をやって居ります。私の部屋も机、椅子、其の他寝台、調度品、総てきれいに飾り、内地では出来ぬ様式にして居ります。全員寝台に寝、ストーブ等もあります。
 只、電燈と水道が今のところこわれてありません。ローソクばかりです。
 近い内に汽車も通じ、電燈もつきましょう。町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です。
 正月は南京で迎える様になる事と存じます。此の手紙も恐らく正月の五、六日頃しか着かぬと存じます。
 既に小包等御送りになって居るかも知れませんが、今度送られる時は「塩から」の様なおかずになるもの、褌等を御願いします。
 宛名は手紙の裏面の通り願います。・・・・・・
十二月二十六日 小次郎
母上様 膝下

[2]第二信
 新年御目出度うございます。
 皆様一同御元気で新年を迎えられた事と存じます。私も御蔭で極めて元気です。
 南京に於いて正月を迎えました。南京の町も次第に清潔になり、避難民も帰って参ります。
 町には兵隊の為に酒保も出来、シルコ屋、オデン屋の簡単なものが出来たそうです。
 上海―南京間の汽車も通い始めて居ります。水道も全部来る様になり、便利になりました。まだ電燈は町の一部分しかつきませんが、近い内にくる様になりましょう。
 今の気候は内地と同じ位か少し寒い位ですが、寒いと云う事はありません。只今、次の戦の準備をして居ります。日用品、菓子類等も手に入ります。ミルクやコーヒーなども持って居ります。・・・・・・
一月六日 小次郎
母上様

山田伍長の手紙
 俺は健在だから、先ず安心してくれ。今は南京の城門を守備して居る。
 我が脇坂部隊は遂に全軍の先頭を切って、敵の最後の堅陣たる南京に名誉ある一番乗りを決行し、光華門城頭高く、へんぽんと日の丸を打ち立てたのだ。万歳万歳の叫びあるのみ。遂に我等は勝ったのだ。
 感極まって涙が溢れ出る。しかしながら、我が第三中隊も残った者は僅か九名だけ。中隊長以下、数多くの戦友が、或いは戦死し、或いは負傷し、遂に我が大隊長殿も壮烈な戦死を致されてしまったのだ。それもその筈、聨隊長殿の命令は厳然たるもの。「第一大隊は全滅を期して光華門に突入すべし」
 恐らく生きて帰る等と思った者は一人もないであろう。敵はタンクを使い、毒瓦斯を撒き、鉄条網を張り、深い水濠を控え、地雷火に、手榴弾に、迫撃砲の集中射撃に、機関銃、小銃は勿論、あらゆる武器を用いて、最後の頑強なる抵抗をしたのだ。俺は大隊が突入の時には、後方連絡任務の為、これに参加できなかったのは、返す返すも残念でならない。
 昨日は軍司令官、朝香宮殿下が態々光華門に来られて、我が脇坂聯隊長殿より当時の戦況を実地に着いて、一々細かく御聴取遊ばされた。
 我が三十六聯隊は先に蘇州川の渡河作戦に一番乗りを決行し、今また敵国の首都、南京に一番乗りを博す。
 どこまでも輝かしき聯隊だ。昨日は祝い酒とタバコが我等に給与された。

 去る十七日は方面軍司令官松井大将を迎えて、華やかな入城式、十八日は戦死者の慰霊祭が挙行され、参加した。
 今日(二十一日)は南京市内の見学をした。国民政府、参謀本部、外国の大使館等々を視察した。
 今日は久し振りで頭の散髪をし、顔のひげを剃った。去る九月十二日、福井の重久床屋で散髪して以来、今日で百日目、今まで一度も刈らないのだから、長い髪の毛とひげと、又、今まで上陸以来、一度も入浴もせず、顔は垢で真っ黒だ。鏡を見たら、まるで熊の様だ。ハハハ・・・。
 此の世の人間とは思われないね。この顔で、もし家へ帰ったならば、誰も俺だと思う者はないだろう。何処かの気狂乞食と間違うよ。今日は散髪をし、湯を使い、やっと人間らしい気持ちになった。晴々した。・・・・・
昭和十二年十二月二十一日夜
南京にて
博治より
引用終わり
posted by 小楠 at 07:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
この記事へのコメント
>一度も入浴もせず、顔は垢で真っ黒だ。鏡を見たら、まるで熊の様だ。ハハハ・・・。
・如何に兵隊と言えど、非戦闘員を万単位での虐殺をして又は目撃して、この手紙は書けないでしょうね。

>此の世の人間とは思われないね。この顔で、もし家へ帰ったならば、誰も俺だと思う者はないだろう。何処かの気狂乞食と間違うよ。今日は散髪をし、湯を使い、やっと人間らしい気持ちになった。晴々した。・・・・・
・汚れた顔と風呂に入っていないだけで「人間らしく無い」と感じていると言うことですね。
 検閲が有ったとしたら、兵隊や卑属を沢山退治したと言うような表現があっても良さそうだけど、ありませんね。

 私は「48人の証言」を読んだ印象が残っているのですが、これらの手紙と印象がダブりますね。
Posted by tono at 2007年05月11日 18:52
tono 様
当時の文書類そのままを見ても、どこにもそれらしい、またはそれを隠蔽しようとしているような意図は、全然感じられません。むしろ支那側の言うことが嘘八百で当時の南京の雰囲気とはかけ離れてているようにしか思えませんね。
Posted by 小楠 at 2007年05月12日 12:50
こんにちは。
私もtonoさんと同じく48人の証言を読みましたが、そこに出ている南京市内の写真を見ると、日本軍の兵士と南京市民が笑顔だったり、市民が屋台で水餃子や野菜を売っていたり、とても和やかな雰囲気でした。この手紙を読んでも、虐殺など想像もできないですよね。
Posted by milesta at 2007年05月12日 13:11
milesta 様
>>48人の証言
この本も、そして当時の記録映画をDVDにしたものも持っていますが、お正月飾りの準備をしたり、支那の子供と遊んだりの状況が撮影されていますね。
あの朝日新聞の当時の報道写真でも、陥落後の平和な南京が報道されています。
双方多くの戦死者はあっても虐殺があったなどとは全く思えません。
Posted by 小楠 at 2007年05月12日 18:07
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