2007年04月27日

支那事変の発端1

当時の出版物に見る盧溝橋事件

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は「支那事変 戦跡の栞」全三巻
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引用開始
 昭和十二年七月七日、この歴史的な夜は七夕だった。・・・・・
 この夜この時限りに日支両国の運命の星は遂に相離れてしまったのである。
 その夜、我支那駐屯軍に属する豊台駐屯部隊は盧溝橋の北方約千メートルの龍王廟付近の草原に夜間演習を実施していた。・・・・・
 屡々我が部隊の演習はこの好適の草原に行われていたのだが、なんに血迷うてかこの夜十一時四十分頃、盧溝橋に駐屯する支那軍(宋哲元の指揮する第二十九軍の一部)は我が部隊めがけて数十発の不法射撃を行って来た。

 ここで二十九軍なるものの正体にちょっと触れておこう。この軍隊は民国十四(1926)年以来、西北革命軍として馮玉祥の麾下で北伐に参加し、民国十七年に宋哲元が陝西省主席となると同時に陝西に入り十九年の反蒋戦に敗れ、同二十一年、宋哲元が察哈爾省主席に任ぜられた時、全軍は河北省に移駐した。
 満洲事変には抗日戦に参加したが喜峯口の一戦に敗れてしまった。しかし、性懲りもなく、相変わらず抗日行動の先鋒となって北支民衆を毒しながら、昭和十一年六月、中央軍の河北撤退を期として平津地方を完全に保有してしまった。

 その兵力十数万、軍長は宋哲元であったが、まもなく第三十七師長馮治安が軍長を兼任し、三十七師(師長馮治安)三十八師(張自忠)百三十二師(趙登禹)及び新編二師より構成され、事変前の配置区域は保定付近が三十七師、天津付近が三十八師、京漢線沿線の大名付近には百三十二師が分駐していた。この軍隊は抗日の親玉馮玉祥の麾下であった関係から、抗日意識は下層まで行きわたっていた札つきの悪質の軍隊であったのである。
 さて、我が部隊は演習を中止して人員点呼を行った所、兵一名が不足しているのを発見したので直ちにその付近を捜索すると共に豊台駐屯隊長に急報したが、間もなく不足した兵員は発見され我が部隊に損害の無いことが明らかになった。

 急報に接した豊台部隊は直に現場に急行、主力を五里店部落付近に集結すると同時に、盧溝橋駐屯の支那軍に対し交渉を開始したが、その最中に龍王廟付近の支那兵は再度不法射撃を行い、今度は迫撃砲弾を交えた数十弾を我が部隊に浴びせかけた。
 ここに於て遂に我が将兵の沈黙は破られた。部隊長の軍刀一尖、暴支膺懲の火蓋は切られ、漆黒の間を衝いて草原を疾駆、怒涛の如く龍王廟の敵陣に乱入、忽ちにして龍王廟付近一帯の永定河左岸堤防の線を占領、盧溝橋及長辛店にある支那軍を監視する態勢を取ったのである。
 時に八日午前五時、薄明の盧溝橋畔に皇軍最初の万歳が湧きあがった。

 しかし北京駐屯軍隊長は事態を重視、森田中佐を北京より現場に急行せしめ、宛平県長王冷斎及び外交委員会代表と不法射撃に関する交渉を開始せしめると共に、取敢えず演習のため分散していた北京部隊の集結を命じた。
 九日午前二時、支那側は我が要求を入れ、午前五時を期し盧溝橋にあった支那部隊を永定河右岸に撤退する旨を約したので、我軍はその実行を監視することにした。

 しかし支那軍は約束の午前五時が来ても撤退の模様はなく、かえって兵力を増加して、我軍に対し、時々射撃を行う始末なので、我軍は更に支那側の協定不履行に対し厳重な抗議を行った。その結果支那側は已むなく午前七時何族長及周参謀を軍使として盧溝橋に派遣、支那軍隊の撤退を促がさしめた結果同地の支那兵は一小隊を残して同日午後零時十分永定河右岸撤退、残る一小隊も保安隊到着を待ってこれと交代することとなったのである。

 しかし永定河左岸の支那軍はこの頃より次第に兵力を増し、着々戦闘準備を整えつつあったのである。即ち十日夕北方衛門口より南下した迫撃砲を有する支那軍は、前日の誓約を破り、龍王廟を占拠引続き攻撃して来たのである。
 ここに至って、牟田口部隊長は決然、主力を第一線に展開、出撃して龍王廟を占領、爾後主力を盧溝橋東方地区及豊台に終結して、状況の推移を監視することにした。

 これよりさき不拡大方針を堅持する我駐屯軍は盧溝橋付近の情況を憂慮して、橋本参謀長は一幕僚を従え九日午後四時天津より北京に到着、冀察側と折衝したが、支那側の態度頑迷で、容易に打開の途なく、遂に十一日午後交渉決裂を覚悟してひとまず橋本参謀長は離京したのである。
 ところが冀察側も我が朝野一致の強硬決意を覚ったらしく、同日俄かに態度を変えて、当時北京に残っていた松井特務機関長に対し、日本側の要求を承認する旨申出て来たのである。
 我方からの条件は全く正当なもので「支那側は盧溝橋及龍王廟に駐屯せざること、謝罪及び責任者の処分、将来の保障として排日行為取締の励行」等の数箇条で第二十九軍代表張自忠、張允栄の署名調印を以て同日午後八時我が方に手交したのであった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変
この記事へのコメント
今朝4月29日、何かの障害で本日予定の記事をアップすることができない状態です。
休日が続くので、いつ正常に戻るか心配ですが、回復次第続きをアップします。
Posted by 小楠 at 2007年04月28日 10:35
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