ご存知の方も多いかと思いますが、日露戦争の時、「マツヤマ!」と叫んで投降するロシア兵もいたと言われる、四国松山のロシア人捕虜収容所の記録が松山大学編「マツヤマの記憶」として出版されています。
この記録の一部を掲載してみます。そこには当時の日本がいかにハーグ条約の遵守に気を遣っていたかが分かります。
画像はロシア兵捕虜を接待する婦人たち

引用開始
日露開戦の五年前(1899年)にオランダのハーグで締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」があった。その附属書「陸戦の法規慣例に関する規則」は、捕虜の待遇に関して次のように規定している。
第四条第二項 俘虜は人道を以て取扱わるべし。
第七条第一項 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。
第七条第二項 交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食
寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。
・・・そして当時の日本政府が、彼ら(ロシア兵捕虜)を大いに「優遇」
したことは、今日でもよく知られている。食事ひとつをとってみても、将校には毎日六十銭、下士卒には三十銭を費しており、これは自国の兵卒の食費が、一日あたり十六銭前後だったのと較べて、破格の厚遇といえる。
・・・・日露戦争の時に開設された収容所は全国で二十九ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で二百二十一といわれる。そのなかで、初めて収容所が開設され、初めて捕虜がきたのが松山であった。・・・・
捕虜と市民との国際交流
捕虜が市内の中学校に来校したり、運動会を見学したりしたのは捕虜と市民との国際交流といってよい。松山中学校を訪問した雄群収容所の捕虜将校で裁判官であったザゴロフスキーは、校長による日本の学校制度の説明に興味をもち、ことごとく筆記したという。また一番長収容所の将校は、師範学校附属小学校を訪問し、図画の授業を参観して大いに感服し、児童が廊下を清掃しているのをみて「毎日斯くするや」と質問し、毎日の日課を教師不在のときでも行う児童に感心した。ロシアでは、よほど高等の学校にしかないような、動物や鉱物の標本が学校にあることをみて彼等は真に敬服したという。
松山高等女学校では隣の正宗寺が収容所の一つとなったため、将校やその夫人の来校は五回に及んだ。
百年前のスポーツ交流ともいうべき自転車競走会が開催されたのは、1905年8月のことである。
当時「俘虜の身分でありながら将校に対しては各方面よりの慰問及び物品の寄付も多く又自由散歩をも許可せられて自ら慰藉することも」少なくないのに、下士卒は「慰藉の途もないのは聊か物足らぬような気がせぬでもない」といわれていたが、道後湯之町の御手洗商店が下士卒に同情をよせ自転車競走会を催して「慰藉を与えんものを其筋へ出願し許可になった」。
こうして八月四日(雨天により翌五日に延期)に自転車競走会が道後公園で行われることとなった。練習はすぐに始まり、道後温泉の入浴をかねて選手(および選手候補)の下稽古が行われ、下士卒は特に喜んだという。収容所の御用達であった大街道の黒田、西堀端の山田、高橋の三軒の自転車商会が競争用の自転車五台を無償で提供、伊予鉄道は銀メダル三個、金十円を寄付し、当日は午前八時から午後八時まで臨時列車を出すこととなった。賞品は、一等に純金メダルとなり、二等以下には懐中時計など実用品が選ばれている。
ハーグ条約を忠実に守った市民
かつての捕虜は奴隷として扱われ、稀には金品財宝と換える、職換法が行われていた。しかし、1899(明治三十二年)のハーグ条約にもとづいて人道的に取り扱うことを日本・ロシアを含む三十カ国が承認して調印した。
調印後、この日露戦争が世界で初めてのケースとなったのである。当時、文明国では必ず、文明の基盤は「人道」にもとづくことを第一と考えられていた。
捕虜を迎えた日本側は、抑留される者の精神的苦痛を配慮に入れねばならなかった。今日では考えられないことである。
とはいっても階級意識の明確な時代であり、捕虜といっても将校に対してであって、兵卒たちまでがその恩恵に預かるとは誰も考えていなかった。
松山では、この考えが民間人にも徹底され、特に県からも通告が出され、軍人はもとより警察官や県庁の役員をはじめ、子どもたちに至るまで守ることの指導がなされた。そのことは、1904年9月、伊予鉄道社長の井上要氏や土地の有志たちの発案で松山での捕虜を、郡中(現伊予市)の彩浜館まで招待していることにもうかがわれる。
汽車は一等、彩浜館では、着飾った婦女子が茶菓子の接待をし、絵画をはじめ、瓶に納めた醤油、酢、干しカニ等も展示して慰安をし、庭では青年団たちの弓道の実技までが披露された。また、五色浜沖の鯛網漁を遠望させている。
また別の捕虜たちは、高浜で開催された松山中学のボートレース、道後公園での第一尋常小学校の運動会の見学、さらには(前述の)日露対抗自転車競走まで行うなどハーグ条約の精神を忠実に実行し手本を示している。
引用終わり
当時から文明の基盤は「人道」にもとづくことを第一と考えていたそうです、とすると人道無視の中朝は、まだ未開国ということになりますね。
仰る通り私も同感で、この本を読んでいました。
当時は未経験のことと文明国をアピールしたいという思いが昂じたのと、日本人の本質的な親切心とが相俟って、ちょっと過剰な待遇となってしまったのでしょうね。
私も厚遇過ぎると思います。日本兵と同じ待遇でよいことになっているにも拘わらず、やはり世界からの見る目を意識していたことは十分考えられますね。
ただ、このような行為は、日本人には理解できるところがあるのも事実でしょうね。引き替え、シベリア抑留は本当に未開国のいやいや共産主義者の仕業でした。
当時の日本の捕虜収容所の様子は知っていましたが、「文明の基盤は「人道」にもとづくことを第一」という視点は、気づきませんでした。
なるほど、それで厚遇だったということもあったわけですね。
でも、近隣住民との交流などは、また日本人特有の考え方などが反映していたのかなという気もします。住民がサッカーを習ったのは確かドイツ人捕虜でしたっけ?
時期はちょっと違いますが、下記のサイトに、千葉県習志野の収容所に捕虜が来る前に、千葉毎日新聞に掲載された「俘虜に対する県民への注意」というのが出ています。
そういえば、去年、徳島のドイツ人収容所を描いた「バルトの楽園」という映画もありましたね。
創価学会がからんだ映画ということがわかったので見に行きませんでしたが(笑)
千葉毎日新聞のご紹介を有難うございます。
当時全部で収容所が29箇所にもなったようで、日本側も一体どれだけの捕虜が送られてくるのか見当もつかなかったらしいです。
ドイツ人の捕虜からは、ソーセージの作り方とか確かバームクーヘンなんかも教わったとか、うる覚えですが。
>>あの支那・南鮮はいまだに約束の半分以下しか払っていないそうです
このことを日本と比較して報じるマスコミは皆無ですね。
各国の援助発表は皆嬉々として発表していたと思いますが。
習志野俘虜収容所記念 オクトーバーフェスト(ビール祭り)2013
10月11〜13日、船橋駅北口おまつり広場
http://myfuna.net/reg/press/navi/2013/09/07180324.html
皆様お待ちしています!