2007年04月15日

グラント将軍横浜上陸

横浜でのグラント将軍歓迎風景と東京到着

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。当時の横浜港の様子をご想像下さい。
画像は横浜での歓迎風景
yokohama02.jpg

引用開始
 七月三日(1879,明治十二年)に行われたグラント将軍の横浜上陸は、お祭り騒ぎにすぎなかったけれど、一大盛儀であった。横浜には美しい港があり、緑を背景とした町並みがいくつも続いている。・・・・港には各国の軍艦が停泊していた。グラント将軍が到着する正確な時刻がわかっていたので、誰もが注意していた。十時に日本の護衛艦が先頭に立って入港した。十時半にはアシュエロット号を従えたリッチモンド号が、ゆっくりと港に入ってきた。・・・・

 三十分ばかりの間、港に砲声がとどろき、砲煙がもうもうと立ちこめた。リッチモンド号は日本の国旗に対して礼砲を放った。これに続いて日本・フランス・ロシアの軍艦もつぎつぎに礼砲を放った。次いで公式訪問が行われた。――パターソン提督と幕僚、他の艦隊に属する提督と指揮官、総領事のヴァン・ビューレン、きらびやかな制服を着た日本海軍の士官たちが艦を訪れた。
 リッチモンド号の士官たちは正装していた。一時間ほどの間、旗艦の甲板は燃えるような色彩と装飾の洪水であった。グラント将軍は高官たちがやって来ると、彼らを甲板の上で迎えた。グラント将軍の上陸は正午きっかりに行われるようにあらかじめ取り決めてあった。

 歓迎会はいわゆる居留地で開いてほしい、といった希望を在留外人たちは持ってはいたが、日本政府は自国の領内で開くことにした。正午に皇室用の座艇とランチがやって来て、リッチモンド号の舷側に横づけになった。グラント将軍は、夫人、子息、伊達候、ジャッジ・ビンガム、吉田氏、ならびに随行をするよう特別に派遣された海軍士官らを従えて、舷側より座艇に乗り移った。グラント将軍が座艇に足を踏み入れるとすぐに、リッチモンド号は登舷礼を行い、礼砲を放った。すると不思議にも、日本・フランス・ロシアの艦艇もたちどころに登舷礼を行い、礼砲を放った。ドイツの船は帝国旗を掲げ、イギリス船は艦飾りを施した。大砲のとどろきと旗が揺らぐ中を、グラント将軍を乗せた船はゆっくりと岸の方に向かって進んで行った。

 敬意を表している艦と、すれちがうたびに、将軍は脱帽し軽く会釈したが、護衛隊はささげ銃をし、楽隊はアメリカ国歌を吹奏した。これは非常に壮大なながめであった。・・・・・

 グラント将軍を乗せた座艇がゆっくりと鎮守府の埠頭に近づいて行くと、日本帝国の皇族や大臣や政府高官たちが彼を待っていた。将軍が船から降りると、日本の楽隊はアメリカ国歌を吹奏し、右大臣の岩倉氏が前に進みでて彼と握手をした。日本の使節団の団長としてアメリカを訪れたことがあったから、グラント将軍は岩倉氏のことを知っていた。だから旧友同志のあいさつを交わした。また伊藤(博文)・榎本(武揚)・寺島(宗則)および閣僚、親王が二人、政府高官の随行員らが一行を待ちわびていた。
 吉田氏は将軍とその一行を日本側の面々に紹介し、お互い少し言葉を交わした。

 上陸が始まったとき、花火が打ち上げられた。――それは日米の国旗を組み合わせたものであった。・・・・別仕立の列車がホームに待機しており、一時十五分過ぎに一行は東京に向った。
 東京までは一時間とかからず、途中、平坦な線路や美しい、よく耕された、見るからに豊饒な土地を通って行った。われわれ一行を乗せた汽車はノンストップで走った。が、駅を通過するとき、どの駅もきれいに掃除が行き届いていることがわかったし、汽車が疾走して行くさいに群集は旗をふり、うやうやしく頭を下げた。

 二時ごろに汽車は東京[新橋駅]の構内に入った。大勢の人が待っていたが、その大部分は商人や主だった市民であった。将軍が列車から降りると、市民の歓迎委員が前に進みでて、歓迎の辞を読み上げさせて下さいと言った。あいさつの言葉が終わると、グラント将軍は天皇専用の馬車の方に案内された。・・・・
 将軍の馬車は騎兵に護衛されながらゆっくりと動き出し、道の西側に堵列してささげ銃をしている歩兵や、たいへんな人込みの中を通り、花や常緑樹でできているアーチ門をくぐり抜けて行ったが、やがてトランペットのファンファーレとドラムが奏される中を、迎賓館にあてられている建物の前まで来ると、将軍は馬車から降りた。――そこは延遼館[浜離宮]という避暑用の離宮であった。

 フランス人のあか抜けした慇懃さをもっていた日本人は、天皇と会うまではグラント将軍がどんな特別なもてなしをも受けないことを願っていた。彼らはまた天皇との会見が七月四日に行われることを望んでいた。その頭の中には、七月四日の独立記念日に、かつてのアメリカの元首を迎え、その歓迎会をさながら一編の詩のようにすばらしいものにしたい、といった考えがあったから、天皇との謁見は、七月四日の午後二時に行われることに決まった。
引用終わり
posted by 小楠 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
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