2007年03月31日

日本文化の紹介

西欧植物園の半分くらいは日本の植物

 いよいよ3月も終わり、たいていの会社では新年度を迎え、期末、期首で大変忙しい時期でしょう。今日はちょっと息抜きの記事を・・・
 1922年アメリカ生まれのドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」という本の中から、第二部の平成四年七月二十日、夏季講座富山会場における彼の講演「世界の中の日本文化」の部分を引用してみます。
写真は1890年の亀戸天神
kamedo1890.jpg

引用開始
 いちばん有名な医者、ドイツのシーボルト(1796〜1866)の話です。シーボルトは1823〜1829まで、いちばん長く出島に滞在した医者です。彼は特別に優れた医者で、幕府もいやいやそれを認めて長崎の町に出てもいいという特別許可を与えました。長崎の町に彼の病院ができ、彼はそこで日本人に医学を教えたのです。日本の洋式医学の伝統はここから始まったのです。

 シーボルトは、あらゆることに関心を持つ男でした。三、四年前、東京上野の博物館でシーボルトの展覧会があったのですが、それを見た私は驚きました。すごい人だというほかありません。彼の関心はすべてのものにわたっていて、日本にいて外国にはいない狼などの動物の剥製を作らせました。植物もそうです。植物の場合は絵を描かせるだけでなく種もヨーロッパへ持っていきました。現在ヨーロッパにある植木のかなりの数は、実はシーボルトの持っていった種から成長したものなのです。

 あじさい、あやめ、つつじ、ゆり、さくらなど、こういう植物はそのころまで、ヨーロッパでは知られていなかったものなのです。今でもヨーロッパの大きな植物園、例えばロンドンの植物園などに行くと、その半分くらいは日本の植物で、シーボルトが種を持っていったものなのです。
 また、日本の建築は外国に知られていなかったので、そのさまざまの模型を作らせました。百ほどにもなります。美術もヨーロッパに知られていなかったため、ある画家にオランダの紙を渡して絵を描かせました。その画家は葛飾北斎(1760〜1849)です。まさに先見の明があったというほかありません。

 北斎が描いた絵は、現在オランダやフランスに保存されています。とにかく、シーボルトはあらゆるものに興味を抱き、そのときはまだ知られていなかった日本を外国に紹介し、日本の文化がどれだけ優れているかを説明したのです。

 幕末になり、ヨーロッパ人は日本語で書かれたものに関心を持つようになりました。日本の絵入り本がヨーロッパに持ち帰られてからです。絵がきれいだから買い求めたわけですが、物語があるので、それを解読したい、日本語を読みたいという気持が生じたのです。
 しかし、日本語を学ぶというのは至難の業でした。日本に入国することはできないし、仮に入国しても、日本では外国人に日本語を教えることは禁じられていました。

 では、まったく学べなかったのかというと、そうではなかったのです。漂流民がいました。嵐に遭い難破した猟師が、シベリアに漂着し、ロシアの日本語学校の先生として迎えられたのです。
 1705年にできたこの学校は、世界の教育の歴史でいちばん成績の悪い学校でした。成績票が残っていますが、それには「この青年は二十年前から日本語を勉強しているが何もわからない」と書かれています。

 私はこのロシアの青年に同情します。なぜなら、教師は日本の猟師で、文字を読めない人がほとんどです。さらに、日本全国からの猟師たちです。越中の国の猟師もいれば、薩摩や津軽出身の猟師もいる。お互いの言葉が通じ合わなかったから、外国人に日本語を教えるといっても何が日本語なのか、教えるほうがとまどっていたのです。

 十九世紀初めごろから、ようやく専門的に言語学を勉強したヨーロッパ人が日本語を学び、1832年、天保三年に初めて日本の作品の翻訳が出ました。林子平(1738〜1793)の『三国通覧図説』です。
 これは、日本人にとっていちばん関係のある外国のことを書いた本です。一番目が蝦夷、今の北海道、二番目は琉球、沖縄ですね、そして三番目が朝鮮です。今は北海道も沖縄も外国ではありませんが、当時は言葉も風俗も違う最も身近な外国だったのです。

 文学作品の翻訳は、もう少し後1847年、『浮世形六枚屏風』という柳亭種彦(1783〜1842)の物語が訳されました。現在だれも読まないのですが、当時まったく偶然にそういう本が日本にあった、ということしか考えられません。しかし、幕末になると開国になるとかならないとかの問題が出てきました。そして、外国人が日本に入国できるようになり、日本語も勉強できるようになりました。そのときから日本人が書いたものの翻訳が外国人によってなされるようになりました。・・・・・

 おもしろいことですが、日本人として最初に外務省からパスポートをもらった十八人は、みんなサーカスの芸人だったのです。軽業師とかそういうような人ばかりです。
 日本政府が出したパスポート第一号は、軽業師がもらったものです。そして、その後、舞踊家とか、あるいはいろいろな芸当を見せるような人たちが、ヨーロッパへ行ったのです。
 明治時代の中期になると、女優とか男優もヨーロッパに行くようになり、日本の舞台芸術もたいへん高く評価されるようになりました。外国人が日本に独特の文化があるということを認めたわけです。・・・・
 ともかく、日本文化がまだじゅうぶんに世界に知られていないということは事実です。・・・・・
 ともかく、このすばらしい日本文化をもっともっと世界に広めたいという望みを私は持っていますし、これからもそのために努力を惜しまないつもりです。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
日本文化を日本人自身でも世界に伝えられる”人材”に育ってもらえると嬉しいですね、今日学窓を巣立っていく日本の若人。
また何ではじめての旅券が軽業師さんに。面白い故事ですね。
以前スリランカの中北部を旅したときにある大きな英国式植物園に行きました。そこには皇太子さま(現天皇)お手植えの桜の木と表示されて立派に育っていました。それほど背は高くなかったですが。他国との文化交流の”成果”は植物のように何十年も要するんだから毎年毎年平均して世界に主張できる”人材”を輩出してもらいたいです。駄目かなあ公立では(wwww)。失礼いたします。
Posted by k at 2007年03月31日 15:33
ケイ様
>>日本文化を日本人自身でも世界に伝えられる

今の日教組などはこの日本の伝統文化を破壊する目的で教壇に立っているようですから、日本人は結束して先ず日教組を叩き潰す大勢力が必要でしょう。
諸悪の根源を一つずつ排除できるように、事実を広めて行きましょう。
Posted by 小楠 at 2007年04月01日 08:50
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