2007年03月28日

いわれなき侵略国

最大の侵略国イギリス

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
ここでは日本が侵略国と呼ばれる言われは全くないことを述べています。
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引用開始
 日本は四海の窓を閉じて鎖国の檻の中に逼塞していたが、浦賀湾頭の砲声、鎖国まかりならぬというので余儀なく国を開いた。そして、やっと白人先進国の国家体制を学んで一本立ちの国家になりかかると、もう移民の閉め出しだ。アメリカやカナダやオーストラリアや、不思議に人の足りない土地ほど日本移民を入れない。日本はそれを甘受した。一方大陸からは強露の重圧を受けこれと血闘半世紀間に及ぶ。日露戦争は朝鮮防護のために戦った。

 朝鮮の南端までロシアの勢力が延び、釜山に露兵が駐在するようになっては、日本は安全だとは言い難い。切羽詰っての日露戦争だったのである。その結果、天佑にも日本軍が勝って、満洲の北端まで露国勢力を押遣ることが出来たのだが、この満洲の粛清地区へ、爾後の三十年間、日本が二十万の人口を送る間に、支那はその百五十倍の三千万の移民を送った。そしてその満洲で抗日排日をはじめ、日本人の居住権まで剥奪しそうになったので、日本はたまらなくなった。そこで満州事変が起ったのだ。

 さてこの事変が起って見ると、蒋介石の中央政府は、日本を唯一の仮想的として全支武装に着手し出した。対日戦備の完成にまっしぐらの進軍だ。満洲が独立したのを、日本の侵略行為と称し、日本を大陸から駆逐する世論で世界を動かそうとした。一方外蒙古も、新彊もソ連に奪られてしまったことはおくびにも口に出さない。チベットは既に全くイギリスの領土と化しているが、そのイギリスをソ連と同じく絶大な援護者と頼んで、対日制圧に死に物狂いの状態を続けて来た。・・・・・
 日貨ボイコットは政府の命令で公々然と行われる。日本人は頻々として殺される。ここまで押詰められて、とうとう勃発したのが今度の支那事変なのである。・・・・

 支那事変は、測らざるに勃発し、想わざるに発展した。つい今春、ソ満国境の風雲慌だしきものがあったとき、日ソ戦争こそ日本として覚悟せねばならぬものと考えられ、危機を目睫の間に控えた観があったのであるが、日支戦争の如きは全く予想外のことだったのである。・・・・
 さて、蒋介石は、以上のように日本国民(軍当局を除く)がとかく軽信していた以上の対日戦備を整えて、だしぬけに日本に戦いを挑んで来た。それが盧溝橋不法射撃の第一弾であり、日本の出先当局が時の冀察政権を相手にして成るべく局地的に解決を図ったが、これを一図に日本の弱腰と見て取った蒋介石の政府は、今こそ日本に一撃を加える好機到るとなし、続々大兵を北上集中させ始めた。一方和平の交渉も無誠意を極め、蒋介石の戦意は既に牢乎たるものがあったのである。・・・・・

 蒋介石は一種の対日宣戦布告とも見るべき声明を発表したが、その全文は言辞激越を極め、「われわれの為すべきことはただ一つ、即ちわが全国民の精力の最後の一滴までも傾倒し、国家存立のため抗争すべきのみ。しかして、一たび抗争開始の暁は和平を求めることは許されない。和平を求むるはわが国家の屈従、わが民族の全滅を意味する条件を甘受せねばならぬ」などといったが、いわゆる四億五千万の人口を全滅させる条件なんて考えるだけでも支那人式である

 たがここに見るは蒋の排日戦的気力と度を外れた自信の強さだ。これと対応して、帝国政府は、それから遅れること約一ヶ月、八月十五日に至って一つの声明を中外に発表したが、その中では「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促すため今や断乎たる処置をとる」旨を明らかにしたに過ぎなかった。どちらが主戦的か将たまた挑戦的かはこれを見ても明らかである。
 まして上海方面に戦火が飛んだことは全然支那側の計画であって、わが海軍は(陸軍は固より)上海に事端を醸すことを極力避けていたのである。

 然るに支那人は、その日本側の消極行動こそ常に弱味と誤算する不思議な習性を持っている民族であって、日本側で控え目にするところには必ず不測の戦禍が待ち設けているのである。大山大尉射殺事件が起っても、まだわが海軍は隠忍して和平交渉を切望したのだが、固より支那側は上海に戦禍を惹起するのが目的だから、遂にその通りの事態が発展せざるを得ない。というのは、支那側として、北支のみを舞台にして日支戦争をまき起こしても、英米の介入を誘い込むひっかかりが少ない。且つ日本軍の勢力を分散によって弱めさせるには上海は絶好の場所である。それにはまず上海の日本陸戦隊と居留民を殲滅する作戦に出で、中央軍の精鋭をすぐって上海に集結した。しかもその防備の堅固は、蒋介石が過去数年、財帑を傾けて経営しただけに十二分の自信あるものだ。こんな関係で、第二の上海事変は、前事変に数倍する規模のもとに展開したのである。

 ザッと如上の次第で、北支に、上海に、日本は支那から戦いを仕向けられて、やっと起ち上った。・・・・

 ところで、今一息突っ込んで、間接的にこの事変の発展性を眺めるとき、われわれは真に厳戒を要するものがあるのである。
 大体、支那事変といっても、要するにそれは支那を舞台とする日本と共産党との事変、もう一つは同じく日本とイギリスの経済戦の尖鋭化したものと見て差支えなく、双方に根がある以上はこの紛争はいつかは切って出るものであり、また一時的終息で根絶やし出来るものでもにいのである。・・・・・

 南支・中支は久しきにわたって扶植したイギリスの地盤であって、殊に国民政府の財政権を掌握するに至るまで、近年来イギリスが南京・上海に肩入れしたところは実に大きいのである。又、香港の対岸たる広東はイギリス勢力下に完全に収められた場所たること、今更いうまでもない。
 国民政府は浙江財閥と共にこのイギリスの傀儡として日本勢力の駆逐を目指したもので、日貨および日本商権の排撃はその最も目標とするところのものであった。こうして過去十年間、漸を逐うて日本の対支勢力は中南支においてイギリス勢力に敗退の余儀なき状態を続けて来たのであって、このままで推進めば、日本はどうにもこうにもならぬ破目にまで追い詰められていた。・・・・・

 イギリス人は感情で動く国民ではない。その意思表示の奥には常に利益関係がひそんでいるのである。又イギリスの行動中、最も警戒を要するのは、一事を貫行するにあたり、都合の悪いときを避け、いつまででも待機して都合のよいときを選ぶことである。都合のよいときとは、即ち他の勢力を目標物に動員集結するときをいうのである。
引用終わり

 当時日本が警戒していたのは、イギリスであることがよく判りますね。まだまだアメリカと戦うなどはこの本にも全然出てきません。
posted by 小楠 at 07:17| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の戦争
この記事へのコメント
>その日本側の消極行動こそ常に弱味と誤算する不思議な習性を持っている民族

これは、支那人だけが不思議なのではなく、外交にはそういう戦略も多々あるということですね。未だにそれを学ばず、譲れば相手も譲ってくれると考えていることこそが、日本の誤算だと思います。
Posted by milesta at 2007年03月28日 08:20
milesta 様
>>譲れば相手も譲ってくれる

全く日本人の間でのみ通用する美徳ですね。
当局者は外国相手でも結局こうすることが、自分たちにとって仕事が楽なのでしょう。そのために国家に損害があっても、目先の自分たちには直接被害が及ばない。
先見と国家観の欠如には嘆かわしいものがあります。
Posted by 小楠 at 2007年03月28日 13:42
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