2007年03月23日

日本人の趣味

ほんものの平等精神

英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌2」から、芸術についてと貴族についての部分を見てみましょう。
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引用開始
 絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。
 東京や京都の住居では、座敷の床の間に一枚の絵画と一個の花瓶があってときどき取替えられるだけである。確かに絵も花瓶も素晴らしいが、西洋人と違って、「どうです、高価な品物がたくさんあるでしょう。私がどんなに素敵な金持ちであるか、考えてもごらんなさい」と言わんばかりに、この家の主人が財物を部屋いっぱいに散らばして置くようなことはないのである。

 高価なお皿を壁に立てかけて置くようなこともない――お皿は食物を入れておくものである。どんなにお金持ちでも、たった一回の宴会のために、1000ポンド、いや20ポンドでも切花のために無駄使いをするようなことはない――切花は単純な物で、しかもすぐ枯れて駄目になってしまう。
 家宝として宝石でも買えるような大金を花などに使ってしまうのはもったいないことである。しかも、この中庸の精神によって、いかに幸福がもたらされることか! 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。

 ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときのローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。

 しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、今では一般大衆の中に求めねばならない。――花をうまく活けたいと思うならば、わが家の下男に訊ねるがよい。庭の設計が気にくわない――どうも堅苦しすぎる。それかといって、自分で指図して直させてみると、ごたごたと格好のつかぬものになってしまう。そんなときには、相談役として料理番か洗濯屋を呼ぶがよい。・・・

明治日本の貴族
 日本の貴族は、見方によって、非常に古いともいえるし、あるいは非常に新しいともいえよう。現在の形式の貴族制度は1884(明治17年)7月7日に始まる。そのとき勅令によって多くの著名な人びとに公・候・伯・子・男という漢語の称号が授与された。これはわが国のデューク(あるいはプリンス)、マーキス、カウント、ヴァイカウント、バロンに相当する。

 しかし、以前にも貴族階級があった。正しく言えば、二つあったというべきであろう。すなわち公卿は、昔の帝の年下の息子の子孫であり、大名は、武力と将軍の恩顧により貴族と富裕階級に昇進した封建諸侯であった。
 封建制度が崩壊すると、大名たちはその領主称号(安房守など)を失い、華族(花やかな家柄)の名称の下に、公卿と合併させられた。

 華族は今も通用している貴族一般に対する名前であって、爵位の段階がどれであろうと構わない。これら世襲の貴族たちは、1884年の新貴族階級の中核となった。彼らは歴史的な家柄や、そのほか栄誉を受ける資格に応じて五階級に分けられた。これらの人数に新しく多数の人びとが徐々に加えられた。彼らはその才能や政府に尽くした勲功で著名な人びとである。
 貴族の各人は皇室費から年金を受ける。彼らはまた特別な制約の下に置かれている。例えば、彼らは公式の許可がなければ結婚することができない。一方、新しい憲法によって、彼らのうちの一定数は帝国議会の貴族院議員となる特権を与えられている。

 貴族階級を真似したがるという俗物根性(スノビッシュネス)が全く欠けているということは、日本人の性質の賞讃すべき特色である。われわれ英国人や米国人のように、「貴族が大好き」で、その後を追い廻し、その真似をし、カメラでそのスナップ写真を撮ったり、さらに娘たちをそそのかして図々しく貴族に話かけさせる、というようなことを日本人はやらないのである。
 
 彼らは少しもそんなことをしたいとは思わない。彼らの考えから見れば、「それでもやっぱり人は人」なのである。話題の人が爵位をもっているかどうかすらも知らない場合が多い。活字にするとき以外は、めったに爵位を用いることもなく、例えば、大熊伯のことを口に出して言うときは、「大隈さん」である。

 これはフランス人の場合も同様である。事実――今にして思えば――俗物根性がないということを、日本人の美徳の一つとして特に数え立てるべきではない。世界中たいていの国民は、日本人に似て、そういう根性をもっていない。俗物根性の臭みは特にアングロサクソン的であるので、この意味を表現する言葉をもつ国語は、英語以外にはあるまいと思われるほどである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:11| Comment(3) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
世界一清潔を好む日本人、趣味の渋さと中庸の精神、これ等に日本民族の長い歴史から生まれた伝統と精神が現されていると思います。おのずと中国人や朝鮮人等の民度の低さとは異なります。しかし現在この伝統の日本人精神も何処かへ遠ざかってしまった感がありますが、安部内閣の教育改革で徐徐に改善される事を祈っています。
Posted by カピタン at 2007年03月23日 09:19
この頃は「貴族が大好き」で追っかけるようなことはしなかった日本でも、今では、「皇室大好き」な女性週刊誌や、本当の貴族ではなく「セレブ」とかいう似非貴族みたいなものが大好きな人たちがいますね。私が子供の頃はこういうのを「品がない」とする雰囲気がありましたけどね。
Posted by milesta at 2007年03月23日 12:41
カピタン様
>>現在この伝統の日本人精神も何処かへ遠ざかってしまった感がありますが

学校では日教組がこの日本のよき伝統を破壊するのにやっきになっていますね。
何よりも教育界に巣食うシロアリのような輩を駆除しなければなりませんね。

milesta 様
>>「セレブ」とかいう似非貴族みたいなもの

セレブの意味も取り違えて使っているようで、似非貴族とはズバリかも知れませんね。こんなものを好むのはどうも日本的ではないと思いますが、milesta 様の言われるとおり、いくらうわべを飾っても「品」がないのはすぐに化けの皮が剥がれてしまいますね。
やはり謙虚になれることが本物でしょうか。
Posted by 小楠 at 2007年03月23日 16:53
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Excerpt: 歴史・地理・政治経済をネタにしたゴロ合わせをご紹介しています。呆れながら楽しく学んでいただければ、と考えています。週1回更新の予定です。
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Tracked: 2007-03-23 10:20