チェンバレンの著「日本事物誌1」は、「私は日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして――単語の辞書てはなくて事物の辞書という形にして――本書をまとめたのである」という如く、事物毎の目次構成となっています。
英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。
「日本事物誌1」から陸軍についての部分を見ます。
画像二列目左から二人目が乃木大将、右がステッセル

引用開始
1600年から二世紀半の間、徳川将軍の強力な統治下において平和が続いたが、昔の軍事形態はそのまま維持されていた。それが明治天皇の治世の初頭(1868年)に突然、粉みじんに砕けた。このときフランスから軍事顧問団が招聘され、ヨーロッパ大陸の徴兵制度が導入されて、むかしの日本の騎士が身につけた、絵のように美しいが足手まといになる装飾に代わって、近代式の軍服が登場した。
1877年(明治十年)薩摩の反乱(西南戦争)を鎮圧したとき、日本軍人は砲火の洗礼をあびた。日本軍人は日清戦争(1894〜5)において偉功を立て、外国の専門家たちを驚嘆させた。特に兵站部の組織は徹底的に行き届いたもので、峻烈な気候と貧しい国土にあって、敢然とその任務に当った。
統率もまずく栄養も不良で、生れつき戦争嫌いの中国人は、逃走することが多かった。日本人の胆力を示す機会はほとんどなかった。しかしながら1894年9月15日の平壌の戦闘、続いて満洲に進軍し、同年11月に旅順を占領したのは注目すべき手柄であった。
さらに1900年(明治三十三年)、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。
日露戦争(1904〜5)は同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。
少数のお雇いフランス軍人、後には少数のドイツ人や一、二名のイタリア人が加わり、われわれの知る限りでは、天才的資質も広い経験もない日本人たちである。しかし、善良な妖精(守護神)が彼らの行動を見守ってくれた。もちろん、作りあげる材料となる日本人が優秀であったことは認めなければならぬ――立派な体格と、絶賛に価する士気、兵士は小柄で、ちっとも美男子ではないが、頑丈で理知的で、喜んで身を捧げる。
一方、士官たちはミルトンの教えに従い、「快楽を軽蔑し、刻苦精励の日を送る」のである。社交界に出てダンスをすることもなければ、つまらぬゲームに時間と精力を浪費することもない。 士官と部下の交際は率直で親密である。それは、著者が別項目で論じている明らかな矛盾、すなわち、この温情主義で治められている帝国に古くから浸みわたっている民主的精神の一産物なのである。・・・・
初めて中国と戦争をしたとき、二人の親王が実際に戦場の指揮をとった。皇室が軍事に首をつっこむことは、はじめてこのことだが決定したころは全く革命的なことに思われた。ようやく1887年(明治二十年)、プロシアの高官フォン・モール氏がやってきて、ドイツの線に沿って宮廷の組織変えを助力したとき、陛下の副官を任命するというような、きわめて当然と思われる処置も頑強な反対に会った。というのは、むかしの日本の宮廷生活では、職員も儀式も習慣も、すべてが中国のものに基づいたものであった。
よく知られることだが、中国では軍人は常に一種の最下層階級とみなされていた。――無法者であり、ろくでなしであり、野蛮で下劣と思われる生活を送るが故に、どの階級にも入れられなかった。
実際、このような連中を天孫の君主のおそば近くに置くことは、神聖を汚すものだと考えたのであった。なるほど、上に将軍をいただく大名や武士は戦う人びとであった。これは日本の社会構造の矛盾の一要素であって、中国には存在しないものであった。しかし、大名や武士が、自分では偉いと思い、実際には国中を支配したが、社会的には、天皇の宮廷のもっとも身分の低い居候とさえも肩を並べることができなかった。たとえ官職を宮廷に得たとしても、それは文官の資格においてであった。時代の移り変わりの何という速さであろう。・・・・
われわれの賞讃を起さずにはいられない点は、すべての官立学校に強制され、たいていの私立学校が採用した軍事教練に対して、生徒たちが熱烈な反応を示したことである。小さな少年までが勇敢に旗をもち、焼きつくような日ざしの中を何マイルも行進し、すべて堂々たる態度をしており、国を侵そうとする敵は、身体のしっかりした大人ばかりでなく、全国の子ども全部も勘定に入れねばならぬことを示しているかのようである。
引用終わり
このように国民すべてがしっかりした国防意識を持っていたことを見ると、今の日本がいかに脆い構造であるかが危惧されます。結局反日や日教組は、国を滅ぼすために活動している存在であることをもっと明確に、一般の日本人にも知らせることが大切でしょう。
あの元寇の時でも、地方ごとにしか無かった、そして対立もあった武家たちが、国防となった時には皆一致して戦いましたね。
今もそのような国民性が残っていればいいのですが。