2007年02月21日

スタールお札博士

排日移民法反対

 日本を愛し、富士山をこよなく愛したアメリカ人、故フレデリック・スタール博士(1858〜1933)を「世界に生きる日本の心」という本からご紹介します。
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引用開始
・・・・ スタール博士は、来日までシカゴ大学のウォーカー博物館の人類学部長を勤めていました。彼は明治三十七年、セントルイス学術研究団の一員として、アイヌの人類学研究が主目的で来日しました。来日した時が日露戦争の時で、日本人の民族性に魅せられ、来日回数は、前後十五回に及びました。
 特に富士山の崇高さ、秀麗さ、雄大さに魅せられ、富士山の大崇敬者になり、また富士山の影響と日本民族のことを深く研究し、日本そのものの魅力にとりつかれ、自身も日本人のようになりたいと思いました。博士は我国滞在中は、常に紋付袴を着用し、その日常生活は、日本人と同じ生活様式に倣ったのでした。

 私共は、彼の日本の理解者としての親日ぶりに好感と敬意を表するものでありますが、只それだけではありません。満州事変及びその後の国際情勢緊迫当時、日本に対する欧米諸国のつのる反日感情に対して、彼は米国に再三往復して、日本の立場の理解に奔走しました。
 従って博士は、その時は敢然、自ら進んで日米親善の民間外交の秀れた大家となりました。知遇のあった人々からは、もし博士が、せめて昭和十九年頃まで健在であったならば、日米は戦わずに済んだのではなかろうか、との声が多く聞かれたものです。
 
 この事実から推しても、彼が如何に日米国交正常保持に献身的であったか窺い知ることができます。また、その間にシカゴ大学に発議して「日本講座」を開設せしめ、日本の正しい研究を通じて日本の紹介に特別の尽力をしました。

富士登山と全国行脚・排日移民法反対

 スタール博士は1858年(安政五年)米国ニューヨーク州オーバン市に生まれました。ラファエット・カレッジを卒業後シカゴ大学の創立(明治二十五年)と共に同大学の教授に招かれました。彼は人類学者として日本とメキシコに興味を持ち、セントルイスで開催された万国博の準備のため、1904年(明治三十七年)に初めて来日しました。
 以来三十余年間、日米間を往復し、東洋文化の研究と日本事情の紹介につとめたのです。大正四年十月、五回目の来日の折、東海道五十三次を踏破したほか、山陽、東北、中仙道を行脚し、四国の霊場八十八ヵ所を巡拝しました。

 富士登山にあたっては旅館「大米谷」を定宿として、須走口から五回も富士に登り、『富士山』『行脚記』などを著してこれを米国に紹介しました。

 大正十三年には、米国議会で排日移民法案が上提された際、「日本人だけを差別する移民法は人道を無視するもの。しかも関東大震災後、日本国民が復興に没頭している時、このような法律を制定することは米国の建国精神に反する」と反対したのであります。
 その一方で、日本が西洋文化に傾き、伝統の日本文化が破壊されていくのを憂えました。来日するたびに日の丸に星の紋付、羽織袴を着て、一時は衣食住すべてを日本風に切り替えるほど、日本の風俗習慣を愛しました。

 特に神社、仏閣にある千社札に興味を持って納札会の会員になり、自分から「寿多有」「お札博士」などと十数種のお札を作って各地の神社、仏閣に納めました。こうした日米親善に尽した功績が認められ、大正十二年、勲三等瑞宝章を受けました。
 博士は独身で、酒は嗜まず、謹厳でしたが、日本における秘書兼通訳の前橋半兵衛は酒仙で、二人の東海道五十三次の膝栗毛は、珍無類の面白さがあったそうです。脚絆、手甲、行衣の巡礼姿で行脚する博士に対し、当時の鉄道省は一等パスを贈っていましたが、特高警察は博士をスパイ視して尾行したこともあるそうです。・・・・・・

 昭和八年八月、満鮮視察旅行でカゼを引いたのがもとで肺炎を併発して、同月十四日、日本の東京聖路加病院で亡くなりました(満七十四歳)。
 遺骨を富士山麓に埋葬することが生前からスタール博士の希望であり遺言でした。当初、アメリカと日本に分骨する予定でしたが、遺族(令妹)との交渉で全部を日本に埋めることになりました。
 そこで、元満鉄副総裁で貴族院議員・江口定條氏が中心となって、富士山麓に墓碑の建立を計画しました。

 元首相・斉藤実子爵が碑の題字、博士の知人でジャーナリストであり歴史家の徳富蘇峰翁が碑文、工学博士・伊藤忠太、佐藤功一の両氏が設計しました。建設にあたっては、「大米谷」の主人・米山安治さんが、須走登山道入口から二百メートルのところに、約千坪の土地を提供しました。そこに遺骨を埋葬し、その上に高さ四メートル、重さ七トンの御影石の立派な碑が建てられました。
 除幕式は、昭和九年十一月十一日、斉藤実、徳富蘇峰、江口定條(代理)、田中広太郎静岡県知事、駐日米国大使(代理)のほか、地元の有志約三百人以上が出席して盛大に行われました。・・・・
 江口氏は博士と山登りの間に知り合いましたが、「国境を超えた盟友」として、ス博士の日本研究に絶大な援助を与えると共に、一再ならず登山や霊場巡拝を共にしています。そして、・・・・・氏は建碑式の数年後、「大米谷」に請うて碑に隣接する土地を借り受け、草屋根の山荘を営んで起臥し、「生涯、博士の墓守をする」と声明してその通り実行しました。
引用終わり
posted by 小楠 at 08:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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