2007年02月20日

明治日本の女たち2

日本の職人たち

アリス・ベーコン(1858〜1918)著「明治日本の女たち」の中に出てくる、日本の職人についての部分を引用してみます。
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引用開始
 平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。
日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。
 職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。

 アメリカの貧困層は、最悪の趣味のものに囲まれて生活するか、まったく装飾がほどこされていない家具や台所用品を購入する以外ない。優美なデザインの品物は珍しいので値段も高く、金持ちしか手に入れることはできない。だから、私たちアメリカ人にとって、「安い」ことは「下品」であることを意味する。しかし、日本ではそうではない。優美で美しくても、とても安価なものもある。あらゆるものに優雅で芸術的な感性がみられる。もっとも貧しい平民でさえも、人間の本能である美的感覚に訴えかけるようなちょっとした品を所有している。

 もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。安価な木版画、藍や白の手ぬぐい、毎日使われる急須と茶碗、農家のかまどでみかける大きな鉄製のやかんは、大名屋敷の蔵にしまわれてある豪華なちりめん布、銀の香炉、繊細な磁器、優雅な漆器に劣らぬほど美しくて気品がある。高価な品々は言うまでもないが、こうした物の存在は、日本で広く美の感性が共有されていることを示している。

 たいていの職人は自宅で作業する。人は雇わず、父親が子どもに技を教え、家業を手伝わせることが多い。家は狭いけれども、清潔で品がよい。畳が敷いてあって、上品な茶器があり、壁に小さな掛け物がかかっている。日本は大都会でも、冬のあいだでも、花が安く手に入る。貧乏でも気軽に買うことができるから、部屋の片隅にはいつも美しい花が生けられている。・・・・・・

 欧米の下層階級は十九世紀の文明を支えるためにひたすら働かされているので、このような美の感性を失ってしまった。日本人にとって、「人生は食べるだけではない」のだ。人生は美しくもなければならない。この美を大切にする心が、日本人を上品で洗練された存在にする。だから、日本の労働者は、アメリカの日雇い労働者よりあらゆる面で優れているのである。

 日本を訪れる外国人は、日本人が外国のものを何でも真似ようとするのを見て驚いている。日本人には舶来品の質の良し悪しを見極める能力が欠けていると偉そうに批判する。しかしその一方で、日本の工場では、日本人なら見向きもしないような悪趣味な陶器、扇子、掛け物、屏風が生産され、このような物知り顔の外国人向けに輸出されている。そのような醜い製品を外国人が大喜びで買うのを見て、作った本人はとても不思議に思っている。要するに、双方の文明がお互いの美の定義をまったく理解していない。それぞれにまったく異なる美的感覚があるのだ。

日本の召使いたち

 来日したばかりの外国人がこの国の召使いの立場を理解するのは、なかなか難しいことである。召使いとその主人の一家とのおおらかな関係は、無遠慮であるように見えるし、彼等は自立した行動をとることが多いので主人の直接の命令に背いているようにも映る。正しいと思うことを、自分が一番良いと考える方法でやってしまう。

 主人の日常生活や財産を管理し、買物をする役目をになう執事から、人力車を引く車夫や馬の世話をする別当にいたるまで、万事この調子である。この国では、何も考えずに主人の命令にひたすら従うことは美徳とみなされない。召使いであっても、自分なりの考えをもたなければいけない。主人の命令の趣旨が理解できなければ従うべきではないのだ。そのため、日本に住む倹約家のアメリカ人主婦は、家事を取り仕切ろうとして絶望的な気持になる。アメリカの主婦は家事の細かいところまで管理するので、召使いは命令どおりに動く機械的な労働力にすぎない。・・・・

 日本の家では、出迎えた召使いと正式な挨拶を交わすのは当然のこととされている。客間へ通されたものの、女主人が外出中であれば、召使い頭が客をもてなす。主人に代わって歓迎の言葉を述べ、お茶やお菓子を出す。家人が皆留守であれば、女主人が帰るまで一緒に客間に座って、客が退屈しないように話し相手となりさえする。このように、日本の召使いは、欧米の使用人のように社会的に軽んじられる存在ではない。

 客は部屋に出入りする召使いにも挨拶をする。召使いは目上の者の会話について知っていることがあれば、ためらうことなく口をはさむ。むろん、自由な発言が許され、大切にされ、ときには大きな責任が与えられるとはいえ、あくまでその立場をわきまえているので、傍若無人には見えない。・・・・・・

 小説『小公子』のなかで、ある召使いが若い主人のとんちんかんな発言を聞いて思わず吹き出してしまったため、あやうく解雇されそうになる場面がある。私の生徒たちは英語の授業でこの箇所を読んでとても驚いていた。欧米の召使いは主人の会話にいっさい興味を示してはならないどころか、内容を知っているそぶりすら見せてはいけないし、いかなる状況においても話かけられない限り、口を聞いても、ほほえんでもいけないということに仰天していた。特定の身分の人間にそのような野蛮な制限を課す欧米の文明とはいかがなものかと、この賢い少女たちは考えていたに違いない。
引用終わり

 確かによく見ていますね、このようなことは日本では当たり前なので気がつかないのですが、外国との比較の中で知らされる日本の美点は、日本人以外の目で見て初めてわかるものなのでしょう。
posted by 小楠 at 07:47| Comment(4) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
これを読むと、庶民の層は欧米社会よりずっと民主的で自由で自立していたようですね。戦後のGHQによる民主化なんて、本当は必要なかった気がしますね。この本を書かれたような日本通の方が占領軍に一人でもいたら良かったのに・・・。
私も今、職人に関する本を読んでいます。
Posted by milesta at 2007年02月20日 21:05
milesta様
>>戦後のGHQによる民主化なんて、本>>当は必要なかった

仰る通りだと思います。GHQにはリベラルが多数いたようで、言論の検閲や焚書、公職追放などはどこが民主的と言えるのでしょう。少なくとも戦時中の日本でさえ、あれほどの弾圧はなかったのでは。
Posted by 小楠 at 2007年02月21日 09:35
ほんとほんと、最も”民主”が無い国だったからこそ民主主義なんて題目を掲げるんですね欧米は。それにしても主にアメリカ人の美的感覚は素朴な日本感覚とはかけ離れていますね。もうギンギラギンの下品そのものです。しかも高価な癖して雑な造りには呆れます。ましてや庶民の美的感覚など禽獣みたいで笑えます。日本人がなんであんな米国を有り難がる癖がついたのか困ったもんです。子供たちには日本の美”国粋”を教える教育が必要ですよね。
Posted by ケイさん語録 at 2007年02月24日 11:07
ケイ様
>>日本人がなんであんな米国を有り難がる癖がついたのか困ったもんです。

しかも未だに悪いところばかり取り入れてね。
地べたに坐るのは隣の方の真似ですかね。
Posted by 小楠 at 2007年02月24日 13:14
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