2007年02月17日

ゼームス坂物語

東京、品川のゼームス坂

 今回は「世界に生きる日本の心」という本の中から、東京品川にある「ゼームス坂」(JR大井駅から北に下るだらだら坂)の由来について引用してみます。(ジェームスの家はその後三越のマンションになっています)
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引用開始
 この坂はもともと「浅間坂(せんげんざか)」と呼ばれてきましたが、英国人で元船長ジョン・M・ジェームスが住むに及んで、「ゼームス坂」と呼ばれるようになりました。戦争中は「敵性語」が追放されたこともありました。それでも「ゼームス坂」だけは消されることなく今もそう呼ばれています。
 ジェームスは明治四十一年(1908年)七十一歳で横浜の病院で亡くなりましたが、遺体はゼームス坂の自宅に安置され、日蓮宗の豊永日良師が導師となって葬儀が営まれました。

 彼は生前から「死んだら火葬にして、その灰を富士山の白雪の上にまいてくれ」と言っていました。しかし、死の二、三日前に、「遺骨は身延に」と言い残し、臨終の際には法華経を高く誦して瞑目したといいます。
 遺言に従って、墓は身延山の久遠時に建立されました。彼は日本に永住を決意してから仏教を好み、日蓮宗に帰依して戒律を守り、妻も子もありません。日本仏教に帰依した点はアメリカ人のビゲロウやフェノロサを連想させます。

 生涯、著書もなかったし、英人・ジェームスも、時代と共に風化しつつあります。彼はどのように日本に貢献したのでしょうか。
 ジェームスを語るには、まず天保十年(1839年)、福井県藤島に生まれた関義臣という傑物から入らねばなりません。
 関は学問を好み、勤皇運動に挺身し、全国各地に奔走しました。長崎に行った時、海援隊を組織していた坂本龍馬と意気投合しました。彼が意見書を見せると、龍馬は破顔一笑して「北国の奇男子、徹頭徹尾、我と同意見なり。爾後我に一臂の力を添えよ」と言い、海援隊の客員となりました。

 関は海外を知らずに開国論を述べることに堪えられず、龍馬のすすめもあって、イギリスへ密航を企てました。そこで知ったのが、海援隊に助力していたカプテン・ジェームスです。
 関はジェームスが船長をしている英国船ローナ号に乗り込み、慶応二年七月十日、長崎を出帆しました。
 上海から香港を経由、シンガポールに向かって航行中、大暴風雨に遭遇して船は沈没。乗組員は端艇に乗り移ってやっと上陸した所、青竜刀をふりかざした海賊にとり囲まれました。ジェームス等はピストル、関等は日本刀で応戦して血路を開き、九死に一生を得ました。思わぬ遭難のため英国行きはとりやめ、ジェームスは日本に留まることになりました。それ以来、二人は厚い友情に結ばれました。

写真は東京品川のジェームスの家
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 日本に滞在したジェームスは、明治元年、英国に出張して軍艦購入の道をつけ、その後は艤装、回航、行方不明艦の捜査等を指導し、航海術などを教えました。日本の海運振興に尽くした功績は、はかり知れないものがあります。
 その後、横浜鎮守府顧問、海軍省顧問等を歴任し、明治二十三年には政府から終身年金を受け、二十八年、勲二等旭日章を授けられました。

 彼が住んでいた浅間坂は急な坂道で、住民たちの交通を不便にしていることを知ると、私財を投じて現在のようなゆるやかな坂に直し、城南小学校の増築には多額の寄付をするなど、品川区にも尽くしました。

「彼には子供がなく、近所に住む日本の子供たちを可愛がりました。当時の子供の小遣いは五厘もあれば多い方でしたが、近所の子供たちを見つけると、二十銭銀貨を取り出し、達者な日本語で、『みんなで分けるんだよ』と、度々くれてやるので、サンタクロースと親しまれていました。ゴマ塩のひげをはやし、見るからに好好爺然としていて、身体は小柄でも、正月には和服を着て、『勲二等ジョン・M・ジェームス』と日本語で書いた大きな名刺を持って、庄屋や町の主だった人達の家々を、年始廻りして歩きました。日本人になりきっていたので、町の多くの人から尊敬を集め、非常に親しまれていました」(YBS法話「身延山の時間」から)

 彼は生涯関義臣一家と親しく交わり関家の影響もあって、日蓮宗に傾いてゆきました。また、小川泰堂という日蓮宗門の学者からも学び、自宅には純銀製の仏像三体を作って、朝夕礼拝していたといいます。
 キリスト教徒の家に生まれた彼が、なぜ父祖以来の信仰を捨てて法華経に帰依したのでしょうか。

 彼は生前中、関に対して、上海・香港あたりで布教している宣教師たちを、口を極めて罵っていたといいます。当時、ヨーロッパ諸国がまず宣教師を先頭にたて、「神の意志を宣布する」という使命感のもとに、悪どいやり方で植民地を獲得してゆく様子が堪えられなかったのです。
 その典型が阿片戦争やアロー号事件でありましょう。それに対して仏教は、「一切の衆生に仏性を見る」おだやかな信仰です。
 彼は自ら文章を書いておらず、精神遍歴を資料として紹介できませんが・・・・・

 昭和三十一年頃、「毎日新聞」の質問欄に、「ゼームス坂」の由来を問う記事がのったことがある。毎日新聞の解答は「ゼームス・スピットというガラス技師が坂の辺に住んでいたらしく、彼は事業に失敗して寂しく帰国したとのこと・・・」というようなピント外れの内容であった。(ゼームス・スピットというガラス技師は実在していたが・・)

 関義臣の令孫にあたる小原正義氏が、誤りを正すべく毎日新聞に投書した。すると新聞は、「異説あり」として「明治七年の東京府外人名簿によれば、それが正しいらしい。キャプテン・ジェームスは関子爵(男爵の誤り)を海賊から救った縁で日本に永住した人物である・・・」と紹介した。ことほど左様に、「ゼームス坂」の名は残っていても、その実像は時代とともに忘れ去られつつある。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:37| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
この記事へのコメント
テレビ朝日映像『じゅん散歩』という番組を担当しております、
坂田広人と申します。

お世話になっております。

ジョン・M・ジェームス氏の写真を探しておりまして。。。

記事に掲載しております、
ジョン・M・ジェームス氏の
顔写真と昔の家の写真の出典元に関してお伺いさせて頂きたいことがあり、
コメントさせていただきました。

このコメントを見ましたら
私のメールアドレスまでご連絡頂けるとありがたく思います。

何卒宜しくお願い致します。

テレビ朝日映像
坂田広人
Posted by 坂田広人 at 2015年09月25日 12:33
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