2007年02月16日

長崎海軍伝習所4

海軍伝習所の勝海舟や榎本武揚

海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、海軍伝習所での勝麟太郎(海舟)や榎本釜次郎(武揚)との練習航海時の模様を見てみます。
写真は榎本武揚
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引用開始
 これから間もなく私は蒸気船にて航海をなすことを定義し、三月三十日海軍伝習所長、大目付木村様および艦長役勝麟太郎らとともに生徒十六名、水夫五十名を引き連れて乗船した。良い天気に恵まれて愉快に五島に向け航海したが、ここでは夜は五島に属する一島の樺島の西岸にある或る港に投錨した。・・・・・
 幕府の肚はその威光を付近の島々に輝かすために蒸気船咸臨丸を使用したかったらしい。・・・・・・

 我々の船は狭い五島の海峡をば、しかも水夫たちのいろいろの指示を受けながら、幸いにも無事通過した。強い潮流がその海峡を東に流れている。それ故、船は進むのに非常な困難を覚えた。機関部員は監督のオランダ将校一名のほかは全部日本人ばかりであったが、この難航を立派に切り抜けた。私は最初、彼らがとても二十四時間も力一杯蒸気を焚き続け得ようとは予想しなかった。・・・・・
 私はこの旅行で大いに得るところがあった。また生徒らも、この航海によって船を動かすことのいかに難しいものであるかを実地に覚えた点において、非常に役立ったと思っている。海軍伝習所長も大いに満足して、幾度も繰り返し私に感謝の辞を述べていた。そうして復活祭の第一日には沢山の鶏卵、四頭の豚、魚、野菜、蜜柑などの贈り物を届けてくれた。
 彼は私に、こうした航海は今後も繰り返しやって貰いたい。また鹿児島、平戸、下関へも行くようにしたいと言っていた。私はむろん喜んでそれを承諾した。・・・・・

 江戸はほとんど毎年、地震、火事または流行病など、何かの災厄に見舞われる。1858年(安政五)は大火の年で、四月には江戸で長崎全市ほどの広い町が灰燼に帰した。このことは艦長役の勝氏が夫人から受取った音信によって私に語って知らせたのであるが、勝氏の全財産はその大火のために失われたとのことである。それだのに勝氏は笑いながら「いや、それしきのこと、何でもござらぬ、18561年の折はもっと凄うござった」と平気で付言していた。実際、この世の事はすべてが比較的である。
 四月十五日、港内を帆走していた十一人乗りのスループが顚覆したのを見たとき、容易ならぬ椿事に見舞われたと思ったが、舵手のデ・ラッペル君の機転によって何の不祥事もなくて済んだ。

写真は飽浦に作られた工場
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 春の心地よい天気は、またもや汽船で旅行をしてみたいような気持を起させた。今度は平戸と下関を訪れることにした。海軍伝習所長は今度は同行しないことに決め、その職権を勝麟太郎氏に委ね、二人の目付役を付けた。私は同所長が同行しないことに不平を抱こうとはしなかった。いやむしろ我々すべては彼のそうした決定を喜んだ。・・・・・

 大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。おまけに海軍伝習所長はオランダ語を一語も解しなかった。それに引き替え艦長役の勝氏はオランダ語をよく解し、性質もいたって穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。
 しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな具合にあしらえば我々を最も満足させ得るかを直ぐ見抜いてしまったのである。すなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである。・・・・・

 江戸奉行の息、伊沢謹吾氏も艦長役の一人であったが、彼もまた旗本出の生徒十六名を率いて乗船し、さらにオランダ士官も乗り込んだ。元来このような窮屈な旅行には、えてして悶着が起こり易いのであるが、十二日間も続いた航海中一度も気持を悪くするようなことは起らなかった。
 生徒は皆々名家の子弟であるにかかわらず、彼らは常に賎しい水夫のごとく立ち働き、また船室は全部これをオランダ士官に提供するは勿論、すべての点において教官に対し礼儀を失わなかった。

 我々はこれらの人々と同船して、実に愉快な日を送った。皆々快活で日本語とオランダ語のチャンポンで、面白い会話を交わしたりなどした。一部の者はオランダ語を非常によく解し、練習のためお互い同士、オランダ語だけで話していた。
 私はこの航海によって如何に日本人が航海術に熟達したがっているかを知って驚いた。ヨーロッパでは王侯といえども、海軍士官となり艦上生活の不自由を忍ぶということは決して珍しいことではないが、日本人、例えば榎本釜次郎のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および期間部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。

 これは何よりもこの純真にして快活なる青年を一見すればすぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯五十九度の地点まで北の旅行をした時に実証した。また機関将校の肥田浜五郎氏(1830〜1889。咸臨丸の蒸気方士官。幕府が石川島で千代田型を造ったとき、その六十馬力蒸気機関を製作した。明治十五年海軍機関総監)も特筆さるべき資格がある。オランダや他のヨーロッパ諸国では、とても望まれないようなこと、すなわち機関将校がまた甲板士官でもあって、甲板士官の代役を勤め得るというようなことが、日本では普通に行われるのである。

 四月二十一日我々は平戸に向って出帆した。話に聞けば、平戸にはかつて我々の祖先が住んだという家の遺跡が今なお残っているとのことであるから、私はかねがね一度この地を見たいと熱望していたのである。我々の船が平戸の町の前に着いた時、沢山の船が田助村の小さな港に入っていると聞いたので、我々の船もそこに錨を卸して田助村を見物に出かけた。そこには妙な人間がいて、我々の行く所へはどこへでも随いてくる。そうして何か驚いたような風をしていた。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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