2007年02月12日

神武天皇の誕生

 前回からの続きになります。このホヲリノ命の孫が神武天皇ということで、今回の古事記のご紹介は、まずここまでとしておきます。
eitaku3.jpg

※鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)
 こう言う事情で、ワタツミノ神の娘トヨタマビメノ命が自身で出向いて来て、「私はすでに妊娠し、出産の時期になっています。考えて見ると天つ神の御子は海原で生むべきではありません。それで参上いたしました」と申し上げた。
 そこで早速海辺の渚に、鵜の羽で屋根を葺いた産屋を造った。しかしまだ屋根も葺き終わらないうちに産気づいて我慢できなくなったので産殿に入られた。今まさに生まれんとするときに、その夫に申し上げて、「すべて他国の者は出産の時には、もとの国での姿になって産むものです。それで、私も本来の姿で産もうとしています。お願いですから決して私を見ないで下さい」と申し上げた。

 ホヲリノ命はその言葉を不思議に思われて、秘かにお産の始まるところを覗いてご覧になると、八尋もある鰐になって這い回り身をくねらせていた。それを見て驚き恐れて逃げ去られた。それを知ったトヨタマビメ命は恥ずかしいと思われて、御子を産んだまま残して、「私はいつまでも海の道を通ってここに往き来したいと思っていました。けれども私の姿を見られて大変恥ずかしい」と申して、海との境を塞いで帰って行かれた。

 このような訳で、そのお生みになった御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と言う。しかしその後は、ホヲリノ命が覗き見されたことを恨めしくお思いになりながらも、慕う心に堪えられなくて、その御子を養育申し上げるという理由で、妹の玉依毘売(たまよりびめ)を遣わし歌を献上した。

その歌に、
「赤い玉は、緒までも光るように綺麗ですが、それにもまして、白玉のような貴方のお姿が気高く思われることです。
と歌った。そこで夫の神が答えて、
「鴨の寄り着く島で、私が共寝したいとしい妻のことは忘れないだろう、私の生きている限り」
とお歌いになった。
 そしてヒコホホデミノ命は、高千穂宮に五百八十年間おいでになった。御陵はその高千穂の山の西にある。

 このアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命が、その叔母のタマヨリビメノ命を妻として生んだ御子の名は、五瀬命(いつせのみこと)、次に稲氷命(いなひのみこと)、次に御毛沼命(みけぬのみこと)、次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、亦の名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、亦の名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)と言う。
 そしてミケヌノ命は波の上を踏んで常世国にお渡りになり、イナヒノ命は、亡き母の本国のある海原にお入りになった。

神武天皇
 カムヤマトイワレビコの命[神武天皇]は、同母の兄の五瀬命(いつせのみこと)と二柱で高千穂宮におられ、相談して言われるには「どの地におれば、安らかに天下の政を行えるだろう、やはり東に行こうと思う」と仰せられて、ただちに日向を発って筑紫においでになった。

 そして、豊国の宇沙[大分県宇佐市]に到着された時、その地の、宇沙都比古(うさつひこ)と宇沙都比売(うさつひめ)という名の二人の住人が足一騰宮(あしひとつあがりみや)を作って、大御饗(おおみあへ[食膳])を献上申し上げた。そこからお遷りになって、筑紫の岡田の宮に一年滞在された。またその国からお上りになって、安芸(広島)の国の多礽理(たけり)の宮に七年滞在された。またその国から遷りお上りになって、吉備(岡山)の高島の宮に八年ご滞在になった。

 そしてその国から上ってこられた時、亀の甲に乗って釣りをしながら両袖を振ってやって来る人と速吸門(はやすいのと[豊予海峡か])で出合われた。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになると、「私は国つ神です」とお答え申し上げた。また「お前は海路を知っているか」とお尋ねになると「よく知っております」とお答え申し上げた。また「私に従って仕えるか」とお尋ねになると、「お仕えいたします」とお答え申し上げた。そこで棹を差し渡し、その御船に引き入れて、槁根津日子(さをねつひこ)という名をお授けになった。[この人は大和の国造らの祖先]

 さて、その国から上って行かれた時、浪速(なみはや[難波])の渡りを経て、白肩津(しらかたつ)に停泊された。この時、登美の那賀須泥毘古(ながすねびこ)が軍勢を起して待ち受けて戦った。そこで御船に入れてあった楯を取って船から降り立たれた。そこでその地を名づけて楯津といった。今でも日下の蓼津と呼んでいる。

 こうしてトミビコ[ナガスネビコ]と戦われたとき、イツセノ命は、御手にトミビコの手痛い矢をお受けになった。そのとき仰せられるには「私は日の神の御子として日に向って戦ったことがいけなかった。それで、卑しい奴から痛手を負ってしまったのだ。今から廻りこんで日を背に負って攻撃しよう」と誓って、南の方から廻ってお進みになったとき、血沼海(ちぬのうみ)に到ってその御手の血を洗われた。それでその海を血沼海という。
 そこから廻って行かれて紀の国の男之水門(おのみなと)に着いて仰せられるには、「卑しい奴の手傷を負って死ぬのか」と男建(おたけ)びしてお亡くなりになった。そこでその水門を名づけて男の水門という。御陵は紀の国の竃山(かまやま)にある。
終わり

 ややこしい名前が沢山出できて、大変読み難かったと思いますが、神武天皇誕生までは、このようなお話となっています。
posted by 小楠 at 09:02| Comment(10) | TrackBack(0) | 古事記で見る日本
この記事へのコメント
ありがとう、読みやすかったです。
実は携帯で「古事記」をダウンロードしたんだけど、一々説明とか「私はこう解釈する」と書かれて読みづらい
Posted by こと at 2007年02月13日 11:29
こと様
読んで頂いて有難うございます。名前がややっこしいのでと思ってましたが、こう言って頂けると安心します。
>>一々説明とか「私はこう解釈する」と書かれて

そうですね、昔のまま素直に読むのが一番ですね。
またよろしくお願いします。
Posted by 小楠 at 2007年02月13日 13:14
おばりんさんからの紹介で来ました。

ウガヤフキアエズノミコトが生まれたと伝えられている地が私の住む石川県にあります。能登の富来と言うところに『生神』(うるかみ)と言う地名がのこっていますよ。ご存知でしたら、すいません。また、遊びにきますね〜
Posted by すだち at 2007年02月14日 11:52
すだち様
そうですか、富来にウガヤフキアエズノミコトのお生まれになった地があるのですか。知りませんでした。
古事記と照らし合わせて、彼の地を訪ねるというのも、なかなか趣があっていいでしょうねー。
今度行く機会があれば、地図を見てから行きます。
有難うございました。
またよろしくお願いします。
Posted by 小楠 at 2007年02月14日 12:24
すだちさん、来ていただけたのですね。
とっても歴史にお詳しいのですよ。
単に私が知らなすぎなのかも知れませんが。
すだちさんのブログは私のブログに頂いてるコメントからリンクで行けますよ。
Posted by おばりん at 2007年02月14日 23:32
おばりん様
有難うございます。判りました、バナーになっていたのですね。
早速お伺いしてきます。
Posted by 小楠 at 2007年02月15日 07:49
おはようです。返信及びわが砂丘に訪問、コメありがとうございます。
生神には生神神社と言う小さなお社があります。井戸はお産の井戸と言われています。あくまでも伝説ですが・・・近くに能登二見と言われる景勝地もあるの(伊勢の二見ヶ浦、夫婦岩によく似ているので)なんいもないちいさな村ですが、そんないい伝えがありますよ!私もここで、また歴史探訪させていただきます〜
Posted by すだち at 2007年02月15日 08:43
すだち様
>>能登二見と言われる景勝地

ここはあのトンネルのあるあたりでしょうか。たしかあそこに二見ヶ浦のような岩があったように覚えているのですが。
Posted by 小楠 at 2007年02月15日 12:05
http://www.sumnet.ne.jp/loach/meisui/osanido.htm
↑こちらをごらんください。
そうです。富来町の中心部に入る手前のトンネル脇を海側に出るとあります。
私も久しぶりに行きたくなりました。
あそこは能登金剛の景勝地が多くて眺めもサイコーですよ〜
Posted by すだち at 2007年02月15日 16:39
すだち様
何度も有難うございます。
ご紹介のページ拝見しました。
ここがウガヤフキアエズノミコトが生まれたと言われている生神ですか、こうして見ると、何となく神聖に見えますねー。

Posted by 小楠 at 2007年02月15日 17:24
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