2007年02月08日

明治日本体験記W

グリフィスの見た封建制決別の日

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
ここではグリフィスが見た廃藩置県(1871年8月29日)に伴う封建制との決別その時を、福井藩での人々の動揺の様子を通じて、見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵はカゴに乗るグリフィス
kago.jpg
引用開始
 七月十八日(1871年)
 まさに青天の霹靂!政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした。その影響はこの福井でもよく観察できた。今日、町の武士の家には激しい興奮が渦巻いている。武士の中には三岡(福井藩士、由利公正)を殺すとおどしている者がいるという。というのは三岡は1868年の功績で収入を得、また福井で長い間、改革と国家の進歩の中心人物であったからである。

 今朝十時に、東京からの使者が藩庁に着く。にわかに学校で騒動が起きた。日本人教師と役人が全員、学監室に呼び出された。数分後に会うと、その人たちの大方は顔が青ざめ、興奮していた。・・・・・
 たった今届いた天皇の声明によると、武士の世襲の所得を減らし、名目だけで任務のない役所を廃止し、それに付けた給金は天皇の国庫に渡すよう命じている。
 役人の数は最小限まで減らす、藩の財産は天皇の政府のものになる。福井藩は中央政府の一県に変わる、そして役人はすべて東京から直接に任命されることになる。

 この変化は私にいい影響を与える。いままで学校の管理に十四人の役人があたっていた。「船頭多くして舟山に登る」。ところが今は、わずか四人。藩庁から役人が訪ねてきて、私の四人の護衛者と八人の門番が免職になると告げた。これからは二人の門番しかいない。福井の地方役人の数は五百から七十に減らされる。役人という厄介者を振り捨てるところである。昔から日本の最大の災いは働かない役人とごくつぶしが多過ぎることであった・・・・新生日本万歳。

七月十九日
 今日の学校は、役人は不在。そのため私の教える科には、いつもの役人の騒ぎ立てや邪魔がなかった。特筆すべきことだ。学監室は空っぽだった。・・・・・
 県庁の定員は昨日までの太った身体が骸骨になったように、最小限度になった。学生が言うには、町の老人の中には心配で気が狂いそうな人がいるし、少数の乱暴者がまだ三岡らの天皇支持者を、こんな状態にしたのはお前らだ、殺してやると言っている。
 けれどもちゃんとした武士や有力者は異口同音に、天皇の命令を褒めている。それは福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求だと言っている。日本の将来について意気揚々と語る者もいた。「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」と言った。

十月一日
 今朝早くから裃姿の武士が告別の準備をして城に集まってきた。私は九時に大広間に着いた。この感動を与えた光景は一生忘れないだろう
 部屋を仕切っている襖は全部取りはずされて、大きな畳の間になった。そこに福井藩三千の武士が位階の順に並んでいた。各自、のりのついた礼服を着て、頭部を剃り、銃の撃鉄のようなちょんまげをつけて、正座して、自分の前にまっすぐに立つ刀の柄を両手で握りしめていた。

 この武士たちの垂れた頭はこの重大な事態から生じる思いでいっぱいであった。それは封建領主との別れというだけのものではなかった。自分らの祖先が七百年間生きてきた制度の厳粛な埋葬であった。一人ひとりの表情が遠くを見つめているように思えた。その目は過去をさかのぼり、不確実な未来を探ろうと努めているように見えた。

 私は武士の心がわかると思った。刀は武士の魂、武士は日本の魂であった。その刀がその名誉の場所からとり外され、無用の道具として捨てられ、商人の墨つぼと台帳のために道をあけねばならないのか。武士が商人以下になるのか。名誉が金銭より劣ると考えられるようになるのか。日本の心が日本の富を枯渇させようとする卑しい外国人の水準にまで下げられるのか。・・・・
 前越前藩主、福井藩の封建領主、そして明日からは一介の貴人になる松平茂昭が、大広間へと広い廊下を進んで来た。・・・・・

 そして松平は痛切な思いを言葉には出さずに、家来の居並ぶ中を大広間中央へと進んだ。そこでは筆頭の家臣によって、簡潔で立派な藩主の挨拶が代読された。藩の歴史、領主と家臣の関係の歴史、1868年の改革をもたらした原因と天皇家を元の権力へ戻したその結果、地方の藩主にその封土を返還せよとの天皇の命令の理由が、次々と簡潔に流暢に述べられた。

 終わりに、藩主は家来全員にその忠誠をすっかり天皇と皇室に移すように頼んだ。それから落ち着いた適切な言葉で、家来の新しい関係、家来自身、その家族、財産の成功と繁栄を祈って、藩主は家来に厳粛な別れを告げた。
 武士を代表して、その中の一人がみなの気持をよく表した挨拶をした。前領主としての藩主のことにも優しい言葉でふれ、そして今後は天皇と皇室の忠実な臣民になる決意を宣言した。

 これで式が終わった。前大名とその家臣が城の広間を退場した。大名はそのままアメリカ人教師の家に向った。私は大名に会い、喜んで迎えた。大名は数分腰をおろした。そして福井の若い人を教える私の努力に心から感謝し、東京の家へ遊びに来るように勧めた。私はそれに答えて、受けた多くの親切に対して感謝の気持を表した。それからアメリカ人の礼儀と日本人のそれにならって、別れのことばを交わした。

十月二日
 今日は町じゅうが大騒ぎをしているように見えた。通りは晴着姿の町の人でいっぱい。田舎からも数千人が来ている。みな藩主を最後にひとめ見にやってきた。それは告別の集まりである
 数百人の老人、女、子供が泣いていた。千人の連隊が十二マイル離れた武生まで藩主を護衛する。忠実な家臣三、四人、侍医の橋本、侍僕が東京まで付いて行く。今日のこれと似た場面が、おそらく今月いっぱい日本の多くの城下町でまのあたりに見られたことであろう。*人々が天皇の命令に服従しないで、藩主を行かせまいとした藩もあったが、一般にどの別れも出立も、悲しく、静かで、礼儀正しかった。
引用終わり

 現在の日本に最も必要なのは、政治家も含めて、先ずこのような抜本的改革ではないでしょうか。 勇気を持ってこんな事のできる政治家の出現を待望するとともに、国民すべてが問題意識をもってアピールする必要があるでしょう。
 マスコミは些細な枝葉末節の事柄ばかりを煽って、本当に必要な問題提起は全くできていませんし、しようともしません。
 ここは国民の力によるしかないと思いますが。
posted by 小楠 at 07:45| Comment(2) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
「廃藩置県」の言葉と意味は誰もが知っていると思いますが、その時の藩の様子は今回初めて知りました。
こんなに厳かに、粛々と、儀式が行われていたのですね。自分たちの権利や権限が突如として無くなってしまうと言うのに、国のためと理解して受け入れ・・・真に私利私欲のない公人であったのですね。
Posted by milesta at 2007年02月09日 07:23
milesta 様
>>真に私利私欲のない公人であったのですね。

まさしく武士道そのものですね、国民が自己の犠牲を厭わず大義に尽くすのが人間としての道ということを体得していた結果でしょう。
公の名のつく者は特にこの精神が必須だと思うのですが、今は一般国民以下のように思います。

Posted by 小楠 at 2007年02月09日 07:54
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