2007年02月07日

明治日本体験記V

女性蔑視どころか、かかあ天下の日本

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
 ここではグリフィスの住んだ家、生活の一部についての記述を見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵は後にグリフィスのために立てられた家のスケッチ
home.jpg

引用開始
 私に当てられた古い屋敷は建てられてから百九十七年たっていて、これまで代々同じ一族が住んでいた。この家は柴田勝家の古城があった所に建っていた。・・・・・・それは堅い材木でできた大きな古い家で、広い部屋と長い明るい廊下があった。幅六十フィート、奥行き百フィートの一階建てだが・・・・・部屋数は全部で十二。床はやわらかくてきれいな畳が敷いてあり、・・・・。
 このようにしてこの住居で数世紀にわたって、先祖代々の地所の上で、一族が平和にくらし、繁栄してきた。

 やがて外国人がやって来ていろいろな災難が起きた・・内乱、革命、将軍の打倒、天皇の再興、封建制度の強制的廃止と。大変化が福井の様子を変えた。知行高が減って、一族は粗末な場所に移り、家来や小作人は散り散りになり、そして今外国人がここに来た。・・・・
 古い文明を破壊するための新しい文明を持ってくるのを手伝いに、知識の建築者として私は福井に来た。しかし、因習打破主義者になることは難しかった。しばしば自分に問うた。なぜこの人たちをそのままにしておいてはいけないのか。みんな充分に幸福そうだ。「知識を増すものは憂いを増す」というではないか。古い祠でさえ、人間の信仰と崇拝を神聖にするため奉納されてきたのだ。この見捨てられた神殿の石を取り除くのは、私ではなく、誰か他人の手にまかせねばならない。かつて位牌があり、燈明と香が燃えていた家族の小礼拝堂(仏間)を、食堂にするとは何といやしい考えか。・・・・・
 信仰もまたそうである。もしも私達の信仰が神聖なら、他人の信仰も神聖なのだ。・・・・・・

 家の同居者について一言ふれないわけにはいかない。日本到着の第一日目に召使が選ばれて、未来の主人に会わせに連れられてきた。佐平をはじめて見た時、佐々木がもっと顔立ちのいい男を召使として選んでくれなかったのが残念で仕方なかった。・・・・・
 また最初、新しい召使が独り者だと思って失望した。家族のある既婚の男に来てもらうつもりだった。その方が同じ屋根の下で実際の日本人の生活を見ることができると思ったからである。・・・・・
 このように失望は大きかったが、反面、うれしいこともあった。佐平は百姓の出ではなかった。東京へ旅をしたことがあった。小者として戦いに出たこともあった。頭がよくて人に仕えるのに適していた。職業はかつて大工であったから、家のことを手際よくした。・・・・

 佐平は見た目よりも心がきれいであった。陽気で、忠実で、勤勉で、主人思いであり、呼び出しにはすぐ応じるし、子供に対するように気を使う。そして佐平は「神が最も気高く造りたもうたもの」であった。主人の金銭を正直に扱うだけでなく、だまされたり、無知からくる損失のないように、番犬のように機敏に頭をはたらかせた

 その上、佐平には女房、赤ん坊、子守の女中といった家族があった。これを知ったのは一週間たってからで、恥ずかしそうに、まるで不興を買うのを覚悟のように、女房がいることを知らせに来たのである。その時、女房は玄関の入口の陰で「旦那さん」がどういうかを聞くために待っていた。女房を紹介してもいいですか。この言葉に私が満足げに驚くのを見て佐平は嬉しそうに、にやっと笑ったかと思うと、さっそく赤ん坊の手を引いてきた。女房がよろよろ歩いて出てきた。後ろに小さな女中がつづいた。

 母親、赤ん坊、女中が順々にひざまづき、畳にうつむいて手をつき額をこすりつけた。それから正座して、恥ずかしそうに新しい主人の顔を見上げた。私はみんなに立つように命じ、その三人の姿を自分の目に写し取った。佐平の女房の立派な体格は貧弱な亭主を全く貧弱に見えさせた。・・・・・・

 情愛の深い母であり、悋気の強い、用心深い妻であった。たえず愉快にはしゃぎ、笑うとゼリーでいっぱいの深い鉢をゆさぶった時のことを連想させた。働き者であった。言うことは研ぎたての剃刀のように鋭く、とくに亭主殿が芸者と酒に金を使いすぎてきた時はそうであった。というのは佐平には、それがなければ人の鑑になるような、この二つの欠点があったのだ。

 それは主人の私にも一目瞭然であった。喉を酒の漏斗にすることがよくあった。また夜は芸者遊びをするのが道楽で、真っ赤な顔をして、からっぽの財布を持っておそく帰ってくることがよくあった。そして帰るが早いか女房の説教をたっぷりきかされた。これは鎌倉について読んだのとは全く違う種類の「幕府」(かかあ天下)であった。禁断の高価な木の実を食べた次の日の朝の佐平のきまり悪そうな目と、士気阻喪した様子で私にはいつもそれとわかった。

 赤ん坊は見れば見るほど目のパッチリしたかわいい子であった。名前を佐太郎という。年は二つで、やっと重心をとることができた。部屋を横切って家の中を渡り歩いたが、時々畳の上に腹這いになった。その子は最初の紹介の時、大人のように頭をひょいと動かして、「お早う、先生」とかん高い声でいったが、幼児語のため先生がチェンチェイに聞こえた。そこですかさずその子に「チェンキー」とあだ名をつけた。・・・・・

 おぶん(お盆)というチェンキーのお守りをする女中のことを忘れてはならない。赤ん坊を抱っこしたり、おむつを変えたり、おんぶしたりする。年は十一で、やせていて、弱そうで、悲しそうな顔をした子供であった。やさしい言葉をかけてやると、しぼんだ花に雨がかかったように元気になった。・・・・・

 白昼、表通りで無花果の葉をつけないで風呂に入るイブには多少見慣れてはいるが、私の福井の家では初めての外国人の前だから、女性が全裸を見せるのは思いとどまるだろうと思っていた。何と無駄な思い!
 あのおとなしい女房が冷たい空気をものともせず無邪気に着物を脱いで、チェンキーを抱いて風呂につかり、化粧をした。終わると次におぶんが入り、つづいて亭主、兄弟、叔父、権次が入った。
 みんな水を沸かしたり運んだりして立ち働いた。彼らは誰もじろじろ見たりはしなかった。手伝うこと以外には何の興味も示さなかった。これが普通の光景で、女の顔や手を見るぐらいの気持しか起こらないものらしい。
引用終わり

 やはり当時日本に来た外人は、男女混浴や女性が平気で裸になるのにはびっくりしたようです。
 また家庭内では今も同じ、やはり昔から女性の力は強かったのですねー。
posted by 小楠 at 07:54| Comment(7) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
おぶんは十一で女中奉公ですか。やはり国は貧しかったのですね。「幕府」(かかあ天下)には笑わせられます。外には主人を立てて、実権は握るのが大和撫子の伝統なのですね(^^ゞ
松平家永代廟所(千畳敷)へは偶然に昨年訪れてましたので、次の記事にTBさせていただきます。
Posted by おばりん at 2007年02月08日 17:40
おばりん様
>>外には主人を立てて、実権は握る

いやはやお恥ずかしい限りで(^_^;
日本人は家では昔から、男は頭が上がらないようで。
TB有難うございます。拝見しました。
あれは何処にあるんですかね。
Posted by 小楠 at 2007年02月08日 20:22
いえいえ、私の家庭も典型的以上ですよ。飼いならされておりますし、餌付けもされてます。場所は大安禅寺から2〜300m上ったところです。福井市からは遠くありません。春に菖蒲見物とあわせてどうぞ。
http://echizen.info/kankou/
Posted by おばりん at 2007年02月08日 21:18
私もかかぁ天下だったと思います。日本って平和になると女性が強くなるし、戦国時代や武士の時代でもちゃんと女性が活躍しているんですから、基本的に西洋社会と異なると思います。

でもそれにしても、私は外で平然とお風呂に入ったりは出来ないなぁー無理ですよぉ。だって、露天風呂も柵がないと絶対に入ろうとは思わないから・・・

これって西洋思想?ヾ(;´▽`A``アセアセ
Posted by keinoheart at 2007年02月08日 22:52
おばりん様
>>餌付けもされてます

お互いですねー、やっぱりか弱いのは男でしょう。
早速のお知らせ有難うございます。丸岡からも近いようですね。

keinoheart 様
>>私もかかぁ天下だったと思います。

でしょ、私は現在進行形でこれを実証できます(^_^;

>>これって西洋思想?ヾ(;´▽`A``アセアセ

これは外国人に言われて、先ず当初は男湯、女湯の区別をしましたが、中に入ると混浴だったようです。
日本人は皆同じ家族のような感覚だったのでしょう。
Posted by 小楠 at 2007年02月09日 07:49
 初めまして、こんにちは、すずです。「本の贈り物」様のコメント欄からお邪魔しました。ご紹介されている本がどれも素晴らしく、夢中で拝見させて頂きました。
 特に「信仰もまたそうである。もしも私達の信仰が神聖なら、他人の信仰も神聖なのだ。・・・・・・」という一文に胸を打たれましたので、拙宅に引用させて頂きました。

 まだまだ沢山拝見したいお話ばかりですので、これからもお邪魔させて頂きます。



 
Posted by すず at 2007年02月24日 11:09
すず様
コメント有難うございます。
そして引用もして頂いて恐縮です。
本来日本人の持っていた良き民族性は、当時来日した外国人が等しく賞賛するものでした。
たとえ少しでも、伝え残していきたいものですね。
Posted by 小楠 at 2007年02月24日 13:18
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