2007年02月02日

米国夫人の大正日本記2

 1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。
セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。本名はドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893〜1975)
写真は本牧の家で息子たちとドロシー。
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※契約万能に侵される日本
引用開始
 日本に着いてから初めての夏、私は山手の家を住みよくするため、ウスイ(専属の人力車夫)と一緒に随分店屋を回ったものだった。そうした或る日、弁天通りの陶器屋のウィンドーで美しい花瓶を見つけ、そこの主人に同じデザインでディナー・セットを注文したいと聞いてみた。
「できますよ、オクサン。でもこの絵付師から見積りをもらうことはできません」という返事であった。
(写真は、ウスイとドロシー)
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 古参者達からよく注意されていた私は、注文を出す前にどうしても見積書を出すように主張した。さんざんああだこうだと苛立たせたあと、奇妙な発音通りのアルファベットで書いた見積りをよこした。それによるとディナー・セットは九十円、三ヶ月後のでき上がりということであった。
 その後間もなく、着物を着た小僧がよろよろと自転車に乗ってデザインのスケッチを六枚持ってきた。いずれも日本の歴史的逸話を画いた美しい下絵であった。鎧や衣裳の詳細は勿論のこと、無造作な黒い髪の毛もよく見ると一本一本丁寧に画かれていた。

 三ヶ月の待望期間が過ぎると、私は喜び勇んでディナー・セットを受取りに陶器屋に赴いた。その後週に二、三回は催促に行くようになったが、それがまた三ヶ月続いた。店の主人が苦笑しながら言うことには「しかたがない」だけである。そして巧みな商法で、良いセットができるまでと私はもう一セットのディナー・セットを買わされてしまった。
 漸くセットが我が家に運ばれた時、私の長い忍耐は充分に報いられた。美術愛好家は晩餐の席で、このような芸術品はものを食べるのに使うのはあまりに勿体無い、美術館に属する傑作だと賞賛を惜しまなかった。私は図らずも日本最高の芸術家の創作によるすばらしい食器の持主になってしまったことに気がついた。

 この事は私を俄に欲張りにして、絵師が生きているうちにもっと作品を手に入れようと思い立った。陶器屋の店主はもう作品は望めないと言い張って、どうしても注文は受け付けてくれなかったが絵師の住所は教えてくれた。・・・・・
 サイトー・ホードーの工房は、テラスの農園を上った山の上の岩にこびりつくように建っていた。彼の妻が入れてくれたお茶をいただきながら、私は通訳を通じてどんなに彼の芸術を評価しているかを話し、もっと蒐集を増やしたいと頼んだ。
 ホードーは前かがみの小男で、金縁眼鏡をかけた取り付きにくい人物であった。彼は私の賞賛を冷たく聞き流し、追加注文は頑として引受けなかった。・・・・
 すっかり失望し、訳もわからずしょんぼりと帰る途中、私は通訳にホードーの態度の説明を求めた。
「ヒロセサン、どうしてホードーは仕事をしたくないのでしょう。もう彼は金持ちになってこれ以上働きたくないのかしら。」・・・・
「ヒロセサン、説明して下さる?」

「はっきり言うのはつらいことです。オクサンはお聞きになりたくないでしょう」
「お願いしますよ、ヒロセサン」

「それなら申し上げましょう。ホードーが貴女の為に仕事をしたくないのは、貴女のことを芸術すべてを金で評価し金銭のやりとりだけにしか興味がないと思い込んでしまったのです。彼はそのような考え方に大変傷つけられて、もうお金では片付けられない問題になってしまったのです」

 私はヒロセサンから、開港後に欧米諸国が貿易に関する契約とか見積りとか裁判時に効力を発揮する”最終価格”などというものを持ち込む前には、日本には伝統的な職人気質というものがあって、その哲学がずっと守られてきたということを学んだ。
 日本では労働と資本の駆け引きは考えられないことだった。双方とも暗黙の紳士協定で結ばれ、職人は労力と時間に厭目をつけずただ可能な限り技能の向上に励めばよい。一方注文主は作品が出来あがった時点で金額についてどうこういうことはできない。・・・・・
 世間は、似合わない高額を請求する職人もケチな支払いぶりを見せる御前様も同様に許さない。・・・・・
 このエピソードを山手の食卓で語った時、私の夜食の客人たちは皆私を物笑いの種にして座興にした。・・・・・
 それでも私はヒロセの語ってくれたことを信用した。・・・・・
(写真は当時の本牧風景)
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 本牧の家はあまりに海辺に近いため、庭の地面は粗い小石のようで容赦なく陽光を照り返して熱気を一段と強くしていた。私はダンナサン(夫チャールズ)に、庭に何か緑を入れなければとても夏中我慢できそうにないと訴えた。彼は早速造園会社に連絡をつけて、その近代的な会社は便箋に英語で社名の入った見積りを送ってきた。金二百円也。ダンナサンはとんでもない、私達には緑の庭は望めないと断ってしまった。・・・・

 私はゴミヤサンに相談を持ちかけたところ、彼は喜んで私が作りましょうと引受けてくれた。・・・・
 彼は直ちに約束を果たしにかかった。六十以上の年齢と本業ではない仕事にもかかわらず、彼は二マイルほど先の土取り場に日に五、六回も往復して二杯のバケツに黒土を入れて運んできた。・・・・
 仕事は一ヶ月かかった。彼は台風や吹き寄せを避けるため、垣根の内側にぐるりと黒土の床を盛った。即ち百五十フィート×五十フィートの敷地の内側に三フィート巾で二フィートの厚みの黒土を運び込んだのである。

・・・彼は北側に風よけの壁を作った際に余った煉瓦を使って土が流されないように縁を作った。そしてつるはしで土をほぐして木が植えられるようならした。
「もうできました、オクサン。」と彼は誇らしげに言った。
「ほんとうにきれいによくできました。ゴミヤサン。お勘定をしたいのですけど。」
「ほんとにつまらない仕事ですけど、下手な仕上げで恥ずかしいんですけど、もしオクサンがこれでよろしいとおっしゃるんなら九円お願いします。」
 一ヶ月もの労働がたった九円とは。欧化された造園会社は全く同じ小庭の造形に百円要求した。私は勝ち誇ってかつて私を笑い者にした人々にこの事件の次第を説明した。・・・・・
引用終わり
posted by 小楠 at 07:24| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
この記事へのコメント
良い本。良い話。抜粋でしょうが拝読させてもらいました。有難うございました。
職人気質。優れた、世界に誇れる日本の財産とおもいます。

 2007.2.2 田中 在札幌 60歳。男。
Posted by tanaka nobutoshi at 2007年02月02日 14:25
田中様
コメント有難うございます。
>>職人気質。優れた、世界に誇れる日本の財産とおもいます。

今も世界に誇れ、日本人にしか出来ない技術は多く町工場などのものがあるようですね。
資源のない日本は、先端技術の開発力こそ大切な財産だと思います。
またこれからも宜しくお願いします。
Posted by 小楠 at 2007年02月02日 17:16
日本の伝統で、物造りをされる方々は金勘定をしないんですよね。金を勘定する人は商人が担当しました。支那人の如きはお米を作る人も金と睨めっこで働きます。だからイカサマをやります。世界中から尊敬されるのは日本の職人さんで、当然ですよね。失われつつある日本の良い習慣をぜひ永久保存させてもらいたいです。
金二百円と九円とは大きな開きが有ります。この差はそのまま商の民/支那人と匠の民/日本人を表したみたいで興味深いです。ドロシーさんが両方を知っていたら仲間同士の茶飲み話にもっと花が咲いたかもしれませんね。失礼いたします。
Posted by ケイさん語録 at 2007年02月02日 19:18
ケイ様
いつも有難うございます。
この造園の話題でも、他の外国人からは本気にされませんでしたが、この後、本牧の家を増築するときに、見積りを取ると高額で、ご主人が増築をあきらめましたが、同じ大工さんにドロシーが人間関係を構築して依頼すると、ずっと安価で請け負ってくれたので、やっと古参の外国人に日本人の職人気質を証明することができたということです。
Posted by 小楠 at 2007年02月03日 07:41
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