2007年01月22日

歪められた日本神話4

神話ツギハギ論者の忘れ物
 日本神話の権威といわれるような人たちが揃ってとっている態度が統合説のようです。これを読んでいて、何かしらの目的があって、わざわざ神話と皇室とを無関係にしたいという熱意?さえ感じられます。
今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像は永濯画の神話物語より
eitaku2.jpg

引用開始
 神話の物語の中で、前後矛盾したところがあればこれは別々の話をくっつけたものだとする説を、でっち上げ説の中でも「統合説」と名づけていることは触れた。
 この統合説にはもう一つの型がある。
 それは、神話の物語を、話の要素ごと話素・話根ごとに、あるいはまた各神格ごとにできるだけ細分し分断してみせて、それら断片だった古い伝承を、のちに宮廷で統合したのがいま見る神話であるとする考え方である。各地、各氏族それぞれの独立した伝承から都合のよい部分をつまみ上げて、適宜つなぎ合わせたものが日本神話であるという考え方だ。「矛盾」はほとんど問題とならない。・・・・・

 さてこの種の統合論者の代表格というべき松前健氏の言うところものぞいてみる。松前健といえば、・・・・・日本の神話伝承のこととなればまずはこの人にうかがいをたててみる、といった存在である。・・・・
 松前流統合説は、まったく珍談に類するのだが、これが学界の主流であることを考えれば真剣に向かわざるを得ない。この種の統合説にはまだヘンなところがある。

 統合説の論者(日本のほとんどの学者)は、挙げたところだけでなく神話全体を徹底的に分断細分して、それぞれを各氏族集団、職業集団、地方勢力のものとして振り分ける。先に挙げた荻原浅男氏もそうだし、少し前の人だが三品彰英といったこの方面の権威者もそうである。

 アマテラスとスサノヲの姉弟神については、荻原氏は宗像氏の祭祀伝承だとするのだが松前氏はアマテラスは宗像氏、スサノヲは大三輪氏と分断する。神話で姉弟として語られる二神まで、それぞれ独立の別伝承とするわけだから少々驚かざるを得ない。これだとスサノヲがアマテラスの弟だという伝承は両氏族ともに持っていなかったことになるのだが、とにかく松前説ではそうなる。

 さらに天の岩屋戸神話は伊勢の漁民の神話だと言うし、アメノコヤネは中臣氏のものだと言うし、天孫降臨の随伴神の組織などは百済の帰化人から借りたものだというし、ホノニニギ以下日向三代は南九州の隼人族の神話だと言う、という具合だ。
 不思議な話ではないか。
 これは言い換えれば、「天皇家の神話など存在しなかった」ということだ。

 皇統を語る記紀神話なるものはみな、田舎の、あるいは庶民の、あるいは外国のものであって皇室には神話がなかった。ところが皇室がそれを全部かき集めて「自分の神話」にしてしまったというわけである。つまり皇室には、神の末裔としての権威がゼロであった。神秘的な権威のゼロである皇室に神話を全部奪われたというわけだが、どうやって奪うことができたのだろう。

 事の性質上ひそかに窃取するというわけにはいかない。圧倒的な武力でおどしつけるほかはあるまい。
 日本中の有力氏族、職業集団、地方土豪がみなそれぞれの神話伝承を持ち、神の裔としての誇り高い人々であったとき、日本でただ一つ、祖先伝承を持たない最も野卑野蛮な武力集団すなわち皇室が、ひとを脅迫して神話を奪い取ったとするほかはあるまい。

 そんなことはあり得ないのだがさてそれでも、おどしつけて神話を奪ったとしてみよう。ところがそれは、絶対に皇室の権威づけにはならないのである。
 なぜなら、人々がすべて、あの神話は実はおれのもので、天皇家のものではないということを「知っている」からである。「お前の神話は忘れろ。忘れなければ殺す」と言われたって、そうそう器用に忘れられるものではないからである。
 そしてこのことは、近ごろ乱立している「王朝交替説」や、一部に根強い「皇室外来説」が、たちの悪い冗談でしかないことを立証するものでもある。

 さて日本の学者の場合、政治的造作文書説をとる人はかならず統合論者であり、統合論者はかならず政治的造作文書論者である。だが、一方が成り立てばもう一方は成り立たない関係にあるのだ。もっとも、両方とも成り立たないのだが。

 ところで松前氏も、いきなり奪い取ったというのは不自然と思うらしい。皇室への「流入」「組み入れ」「入り込み」の過程について議論をしている。それによればだいたい次のようになる。

「記紀神話というものは、多くの氏族神話を宮廷で統合・整理したものだ。もともとはローカルな自然神話・創造神話、また農耕、漁業、狩猟などの民間神話だ。それが豪族によって編成され氏族神話となる。これが中央貴族の媒介、后妃や采女の媒介、また壽詞などの服属儀礼などを通じて宮廷に入り込んだ。それがやがて文献に筆録された」。

 要するにやはり、皇室にとっては他人の神話だということである。いろいろ想像をたくましくするのは結構だが、こういうものを想像力とはいわない。他人の神話で自分を飾って喜んでいる皇室が、人々の目にどう見えるだろうかを考えて初めて「想像力」というものだ。
 その点に少しは気づいたのか上田氏などは困ってしまって、天皇家にも同じような神話があったから取り入れやすかったのだろうなどと言っているが、皇室にあったのなら皇室の神話をまとめればよいのであって、それであってこそ権威も生ずる。なにも猟師や狩人やまた外人の神話をかき集めて、嘘八百が誰にも見える話をでっち上げることはないのである。
引用終わり

 まあこれらの神話学者たちは、何をこれほどまでに歪めたいのでしょうか。古事記も素直に読んでおればなかなか面白い物語だと思うのですがねー。
posted by 小楠 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の日本
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