2007年01月19日

歪められた日本神話2

神を忘れた神話学者

 今の日本では、ほとんどの神話学者が、日本神話を貶めるために様々の理由を創り出して、日本神話がでっち上げられたものだとした説を主流にしてしまいました。子供たちには、もっと素直にありのままを教えるのが大切ではないでしょうか。
今回もそれらに対する解り易い批判の書から引用して見ます。
 荻野貞樹著「歪められた日本神話」より、
画像はイザナギ、イザナミ(ボストン美術館蔵)
izanagi.jpg

引用開始
 古事記や日本書紀の特に神話部分を扱う人たちは、辻褄が合った話を見るとこれは辻褄が合うようにでっち上げたものだと言うし、どこか不合理不自然で食い違いのあるところを見ると、これは作り物こしらえ物だからだと言うことに決めているようである。だから彼らは「考える」必要がない。・・・・・

 記紀に書かれていて現に文字になっている事柄について頭から嘘だと言うのだから、その論文は読んでみてもあまり「学ぶ」という気分が起こらない。本分のほうもはじめから嘘でたらめと決めつけられた文書だから、学者の議論は多くの人を記紀神話から遠ざけるのに有効に働いた。
 考えてみれば、専門家がこぞって自分の専門への関心を人々から奪うことに熱心な分野というのは、ほかには一つもないのではないか。

 ・・・益田勝美氏は、国譲りの交渉が出雲で行われたのに天孫の降臨が筑紫であるというのは不合理で矛盾していると考える。私は別に不合理とも矛盾とも思わないが、しかしこれはまあ、ほとんど日本中の学者が矛盾だと思っているのだから、ここでは一応そうしてみる。
 さて、出雲での国譲り、筑紫への天孫降臨、これは矛盾である。そこまではいいとしょう。ところがここから話はおかしくなる。
 益田氏は、このような矛盾があるのはまったく別々の無関係な話を強引にくっつけたからだと言うのである。・・・
一応挙げておきたい。

「スサノヲの子孫である大国主(おおくにぬし)は出雲にあって国を治めている。子孫も栄える。そこにアマテラスの神勅がくだる。すなわち「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は、我が御子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命の知らさむ国」というのである。オシホミミは天降ろうとする。
 ところがオシホミミは天の浮橋から戻ってしまう。そこで神々が協議し、アメノホヒを派遣する。
 ところがアメノホヒは大国主に媚びついてしまって復奏もしない。そこでアメノワカヒコが派遣される。そのアメノワカヒコも大国主の娘の魅力のとりことなり八年もの間復奏しない。アメノワカヒコには神罰が下される。

 アマテラスはまた思金神ほかに相談すると、タケミカヅチを降すのがよかろうということになる。
 タケミカヅチは、出雲の伊耶佐の小浜に降臨して、十拳の剣を波の穂に逆さに刺し立ててその上に胡坐で坐るというものすごい姿で大国主に迫る。

「アマテラスほかの御意志によりこの国はアマテラスの御子オシホミミがお治めになることとなっている。汝が心はいかに」。
 大国主は、自分では確答できないとして、子のヤヘコトシロヌシに答えさせる。ヤヘコトシロヌシは国の献上を承知する。
 ところがもう一人の子タケミナカタは承知せず、タケミカヅチに挑みかかるが、たちまち赤子のようにひねられる。タケミナカタは遠く信濃の諏訪の湖近くまで逃げ、葦原の中つ国の献上を誓う。
 大国主も献上を誓う。ただ条件をつける。すなわち「私を天の御子と同様の壮麗な神殿を作って祀ってもらいたい」。
 かくして出雲の多芸志の小浜に壮大な神殿(出雲大社)が造営
される。タケミカヅチは天に帰り、葦原の中つ国の平定をアマテラスに申し上げる。
 そこでアマテラスは、子のオシホミミを降すこととする。降臨の支度の間に子が生まれる。ホノニニギの命という。オシホミミはこの子を降したい、と申し出る。そこでこのニニギの命、つまりアマテラスの孫(天孫)は、筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に降臨することとなる。

 さて私はこの神話は、実に自然で緊密、間然するところのない流れと思うのだが、日本古代文学研究の硯学である益田氏はそう思わない。
 出雲と筑紫では地理的に距離がある。そこで益田氏は、
「別々のかたちで作られた伝承の、強引な接合形態とみるべきだろう」
とするのである。益田氏だけではない。学者はほとんど全部そうであるから
名を挙げてもしかたがない。誰か知り合いの国文教師か歴史学者にたずねてみるとよい。同じことを言うのに驚くだろう。

 私に言わせればそれはまことに滑稽な議論であって、ミズリー艦上で重光葵が国譲り文書に、いや降伏文書に調印して、厚木にマッカーサーが「降臨」しても、私は少しも不思議でない。
 彼らが忘れていることは、アマテラスも大国主もニ二ギも神だということである。もっとも、何度もいやになるほど言うが、彼らは日本神話は神話でなく造作・統合・ツギハギの政治パンフレットだと言う、ということを思い出すと話が煩わしいが、とにかくアマテラスほかは神なのである。

・・・・アマテラスやニ二ギの住まいは高天の原なのだ。天空、頭上のはるかな天空である。神は天上よりすべてをみそなわしている。出雲と筑紫の地理的距離などなにほどのことがあろう。
 しかも、大国主が天の神に献上したのは出雲の国ではない。古事記が何度も語るように「葦原の中つ国」であって、これは要するに国土ということである。国土の支配者が出雲にいようと筑紫にいようと、はたまた江戸、大阪にいようと、全国土に君臨していることに変わりはあるまい。・・・

 益田氏によるなら、独立した「国譲り」伝説なるものはいったいどんな話か。
― むかしむかし、どこかから、なにやらわけのわからぬ乱暴な男がやって来て、おどしつけて国をよこせと言いました。大国主は承知しました ― たったこれだけである。
 前後になにもない。どこから来たのか、誰が来たのかも一切語られることはない。もし天から固有名詞を持った彼らが来たのであれば、話はたちまちアマテラスや神勅や天孫降臨と密接な一体をなしてしまうからである。
引用終わり

 このようにかなり無理があるような説をわざわざ唱えなくても、素直に神話として物語を楽しむほうが、ごく自然に思えますが、皇室の権威を否定するということが目的の学者はどんな難癖をつけても神話と皇室を切り離したいのでしょう。
posted by 小楠 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日本
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