2007年01月12日

朝日プラウダ日本版時代

激越な「北方領土の日」反対論

片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、昭和五十年代、朝日が一党独裁の超国家主義で共産主義の総本山ソ連への傾斜を露にしていた頃を見てみます。
写真は、スパイ、レフチェンコ氏の単独インタビューを掲載したリーダーズ・ダイジェスト
レフチェンコ.jpg

引用開始
 昭和五十六年に政府が二月七日を「北方領土の日」とすることを決めた時には、(二月四日)社説で
「1855年のこの日、下田で日露通好条約が締結され、日露両国の国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に決めた。四島が両国の平和的な話し合いで日本領土と認められた歴史から見て、『北方領土の日』を選ぶとすれば、妥当な日取りといえる」とし、「ソ連は、返還運動を『一部の策動だ』と非難している。これは誤っている」とした。

 だが、「しかし他方、東西の緊張が高まり、内外に右旋回が著しくなるなかで、『北方領土の日』をテコとした国民運動が誤った方向に曲げられたら、所期の目的を達せられなくなるおそれがある」「いたずらに『ソ連脅威論』であおったり、右傾化へのバネに利用してはならない。現状ではその危惧がないとはいえない」と、衣の下に本音が透けていた。

 そして、初の「北方領土の日」を翌日に控えた二月六日の「論壇」に<「北方領土の日」取り下げよ>という東海大学総長だった松前重義・日本対外文化教会会長の激越な一文を掲載したのである。それは、
「鈴木内閣が、閣議で『北方領土の日』を決定したことは、日本の対ソ外交における大きな失敗である」と非難するもので、その理由は「この決定は、改善の機運が高まった日ソ関係を再び緊張においやるだけではなく、肝心の『北方領土』問題の解決を一層困難なものにするからである」と言うにあった。

 国後、択捉、色丹の三島にソ連がわがもの顔で軍事基地を増強し、北方漁場では日本の漁業者が苦汁をなめている緊張のさ中で、日ソ関係は「改善の機運が高まっ」ているとは、超弩級の親ソ派でなければ口にできない言辞である。なにせ松前氏は、朝日と提携して、ソ連のレーニン革命六十周年を盛大に祝う事業を行ってさえいる。

 しかして松前氏は、ソ連との相互信頼こそが北方領土問題解決の前提だと強調し、にもかかわらず日本政府は、ソ連を刺激する「北方領土の日」を設けて、自ら信頼関係を壊すことをしたと言い、これは「日本政府が『北方領土』問題の解決を事実上放棄する宣言であった、と理解している」「閣議決定によって、『北方領土』を永久に残し、日ソ間の緊張を継続し、軍国主義への道を開こうという意図ではないだろうか」とまで激しく難詰した。

「軍国主義への道」とはバカ気た妄想だか、これは先の朝日の社説が言う「右傾化へのバネ」にも通ずる眇で、ソ連の代弁にほかならぬ。
「ソ連は第二次大戦において、世界で最も大きい人的、物的犠牲をこうむった。それゆえに第二次大戦の結果にソ連がこだわるのは、決して理由のないことではないのである。北方領土問題は、ソ連にとって国際法の問題というよりは、多くの犠牲のもとにえた結果を失えぬという、国益と感情問題なのである

 恐るべき言説である。このようにソ連を理解することによって確立する信頼関係で、北方領土の返還が実現するか。論理矛盾もはなはだしいが、第二次大戦でソ連は「世界で最も大きい人的、物的犠牲をこうむった」とは何を根拠としているのか。ここではヨーロッパ戦は措くとしても、ソ連は相互不可侵を誓約した日ソ中立条約を一方的に破って、米国の原爆投下で決定的なダメージを受けているわが国に、時来たれりとばかりに追い討ちをかけて満洲になだれ込んだ。・・・・
 このソ連の北方領土に対する立場と国益と感情とやらを理解せよと言って、「北方領土の日」設定を激しく非難する主張を、朝日は堂々と紙面に掲げたのである。

※レフチェンコ事件を矮小化
 1982年(昭和五十七年)12月に、レフチェンコ事件が起った。KGB将校として日本で諜報謀略工作に従事し、昭和五十四年に日本からアメリカに亡命したスタニスラフ・A・レフチェンコ氏が、1982年12月9日に米下院情報特別委員会でKGBの活動の実態を証言した。

 証言はKGBの活動、他の組織との関係など多岐に及び、さらに自分がどのようにスパイ教育を受け、日本に工作員として派遣されるに至ったか、そして1975年(昭和五十年)2月に家族と共に東京に到着してからの日本での活動内容まで詳細にわたっていた。

 日本での活動では有用なエージェントが多数いて、それは大新聞の記者、元閣僚、国会議員数人、日本社会党の幹部数人、政府当局者と緊密に接触できる立場の中国問題の著名な研究者の一人などだと証言し、工作の成功例を挙げもした。諜報謀略活動に対処する法律のないわが国は「スパイ天国」だと言われていたが、このレフチェンコ証言は、まさに驚愕であった。だが、朝日はこれを軽視したのである。

12月12日付社説は、レフチェンコ証言には疑問点が多いとし、
「すべておおっぴらの日本で、単に食事を共にしただけで相手を取り込んだと錯覚し、関係者なら誰でも知っている程度の情報を機密と誤解していたとしたら、お粗末ではないか」と言い、この証言を「前KGB議長アンドロポフ・ソ連書記長の登場、レーガン大統領の『ソ連の脅威』論などと結びつけて考えがち」になるのはよろしくないと述べて、「事実関係を十分吟味もしないまま人を色眼鏡で見る風潮や、機密保護法立法などの動きが活発になるとすれば、その方に警戒心を向けねばならない」と強調したのである。・・・・

 雑誌「日本版リーダース・ダイジェスト」が翌五十八年五月号にレフチェンコ氏に単独インタビューした問答を掲載したが、レフチェンコ氏が二十六人の日本人エージェントのコード・ネームと、その肩書きあるいは職業、いかなる立場の人物かを明かしたのをスッパ抜いたのである。コード・ネームには八人の実名も明かされていた。・・・・・

 昭和五十八年五月四日付夕刊の「にゅうす・らうんじ」欄は、一頁の半分強を使って<レフチェンコ証言を切る>と力を入れた。
 「証言をめぐる疑問を点検してみた」というのである。そして「この三月下旬、警視庁捜査員がワシントンに派遣され、CIA係官の立会いで直接本人から事情を聴いている」が、「証言の裏付け捜査でも、国内法に触れるような事実はなかった、としている」と記した。

 諜報謀略を取締り、摘発処罰する法律がない日本では当然の結果である。だからこそスパイ防止法の必要が唱えられたのだ。
引用終わり

 この頃の朝日は、社会党、共産党と同じく、いわゆる「スパイ防止法」に徹底して反対しました。スパイ防止法を都合が悪いと思う連中は、それなりの後ろめたさがあるからでしょう。
 また、この法律が未だに成立はおろか、議題にも上げられなかったことは、与党にいる議員にも同じことが言えます。
posted by 小楠 at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 反日マスコミ
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