2007年01月09日

ハルの予防戦争

民主主義国の根本的な弱み

日本では「ハル・ノート」で有名なコーデル・ハルの考え方と、ドイツ、ソ連、日本等の情勢把握の模様を「ハル回顧録」の中に見てみましょう。
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引用開始
 当時(1930頃)英仏の力ははるかに勝り、ドイツははるかに劣っていたのであるが、どうしてドイツが優越の地位を占め、ひいては英仏の存在までもおびやかすようになったのだろうか。
 これは世人がいつまでも疑問とする問題の一つであるが、その理由は、英国もフランスもわざわいを事前に防ぐための戦争をしようとしなかったことにある。
 英国における孤立主義的な気分の強さは米国に劣らなかった。フランスが1923年にルールに侵入したのは予防手段をとろうとしたものであったが、これは英国のはげしい反対を招き、ポアンカレー内閣はこのためにつぶれてしまった。その後フランス政府は予防戦争に乗り出す勇気を失ってしまった。

 ここに民主主義国ないし人民が重要な発言権をもつ政府の根本的な弱みがある。こういう国はいろいろの面ですぐれた面を持ってはいるが、不幸なことに外からの危険が目の前にせまった場合、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと行動するという伝統をもっている。純粋な民主主義は、アテネの市民が文明への貢献としてつくり出したものであるが、この小さな国の国民は、外からの危険がせまった時に、戦うべきかどうかを人民投票に問おうとした。この指導性の不足、政府当局の指導ということに考えの足りなかったことが、アテネ人をとらえて奴隷にしようとした侵略者の乗ずるところとなったのである。・・・・

※日ソ不可侵条約締結
 ヒトラーがソ連を攻撃するだろうということは半年も前からわれわれは有力な証拠を持っていた。だから六月二十二日の知らせ(ヒトラーのソ連侵入)にもわれわれは驚かなかった。
 1941年1月、ベルリン駐在商務間のサム・ウッズから私に極秘の報告が届いた。ウッズは一人のドイツ人の友人を持っていた。この友人はナチスの反対者だったが、ドイツ政府の各省、中央銀行、党の高級幹部などに深く食い入っていた。この友人が、ヒトラーの司令部で、対ソ戦の準備についての会議が開かれているということをウッズに知らせたのは1940年8月のことであった。・・・・

 私はこの報告の内容をソ連大使ウマンスキーに伝えさせることにした。私はそうすることが、米国がソ連に対してとるべき正しい態度だと確信した。私はそのころ私の要請に応じて米ソ両国の意見の食い違いを調整するために、何回もウマンスキーと会談していたウェルズに、この情報をソ連大使に伝えるように頼んだ。ウェルズはその通りにした。・・・・


 ウマンスキーはこの情報を本国政府に伝えるといっていたが、彼がそうしたことは疑いない。それがソ連の政策にどういう影響を与えたか、はっきりしたことはわからない。
 だがそれからわずか三週間後に、スターリンは突然日本の外相松岡との間に不可侵条約を結んだ。当時松岡はとても不可能だと思いこんでいたのであるが・・・・。

 スターリンがこの条約を結んだのは、ヒトラーが欧州でソ連の攻撃を計画しているという考えに立って、極東における自国の地位を守るためであったことは疑いない。・・・
 ヒトラーがソ連攻撃を計画しているという情報を得たことは、日本との交渉にあたって特に私に役立った。これによってソ連と日本の同盟はあり得ないと見てよかったから、われわれは日本に対し強い態度をとることができた。・・・・

 独ソ戦はわれわれになんのむずかしい問題も起さず、われわれはヒトラー打倒の希望をあらたにした。私はホワイト・サルファー・スプリングズから絶えず大統領とウェルズに連絡をとり、ソ連にできる限りの援助を与える約束をするようにと説いた。大統領はハリー・ホプキンスをロンドンからモスクワに派遣してソ連の軍事的必要を視察させた。

※スターリンの人柄に感銘
 外相会議の最終日の十月三十日(1943年)の夜、クレムリンのエカテリーナ大帝ホールで、代表団を招待したスターリン元帥主催の夜会が開かれた。・・・・私はスターリンの右側の席についた。このために私は長い食事とそのあとの催物の間を通じてスターリンと話をするすばらしい機会に恵まれた。・・・・
 彼は先ず「今度の会議は大成功でした」といった。私はすぐに、「全くあなたのお陰です。あなたが英、米と一緒になって協力を土台とする世界計画に加わる決定的な一歩を、ソ連に踏み切らせてくれたからです」と答えた。彼はこれに満足した様子だった。この時の話全体を通じて、スターリンは、平和のための、軍事上、政治上、経済上の国際的協力の計画を無条件に支持する考えを表明した。・・・・

 だがそのあとで、スターリンは非常に重要なことを述べた。彼は連合国が首尾よくドイツを打ち負かしたら、ソ連は日本との戦争に参加することを明言して私を驚かしまた喜ばせた。
 スターリンは、私がこの問題についてリトヴィノフ大使と話しあったことを念頭においていたのかも知れないが、彼はこの話を全く自分の方から持ち出した。彼は結論として、極秘の情報としてこれをルーズベルト大統領に報告してよいといった。
 わたしは心からお礼を述べた。この時のスターリンの言明はきわめて率直であった。彼は力強く自発的にこれを言明し、何の代償も求めなかった。

 1945年2月のヤルタ会談で、スターリンは同じ約束を文書の形で大統領に与えた。しかしこの時われわれは、千島や樺太の一部を含む多くの領土変更の譲歩をアジアで与えることに同意した結果として、これにこぎつけたのである。
私は1944年11月に国務長官をやめていたから、どういう情勢の変化がこれらの譲歩を必要としたのかわからない。・・・・
引用終わり

 この回顧録で、ハルは日本に対しては相当な敵対心をもっていたことがわかりますが、スターリンの人柄に感銘したとか、ソ連の対日戦への参加表明に心からお礼を述べたとかで、条約違反を平気で容認するハルの人間性を疑います。これが結局は軍隊の降伏後、シベリア抑留の悲劇となり、今なお続く北方領土問題の原因です。
posted by 小楠 at 07:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ
この記事へのコメント
まあ敵対心っていうかこの時点では明確に敵ですね。

日ソ中立条約は、関特演などという開戦準備をやらかした時点で、実質的に空文化してしまっていますね。
その上で、ソ連は中立条約の自動更新はしない、と、きちんと事前に通告していたりします。
当時の日本は全世界の敵であり、その世界の敵との条約を律儀に守る事によって、連合国内での立場と発言力を揺るがすリスクをとる必要は無いと判断されたというのもあるでしょう。
国際社会にはぶられるということは、国際条約の庇護すら受けられなくなる、という、恐ろしい結末を迎える事になる、という丁度よい例かと私は思っております。
Posted by 薔薇帯 at 2007年01月11日 21:23
薔薇帯様
>>きちんと事前に通告していたりします

期限まで誠実に守っていればよかったのにねー。
Posted by 小楠 at 2007年01月11日 22:01
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