2006年12月29日

レーリンクの東京裁判4

本当に興味をもっていたのは真珠湾の復讐

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は演説するルーズベルト
sensen.jpg

引用開始
C:東京裁判の政治的側面に話を移したいと思います。当時、裁判の遂行にあたって主たる目的の一つとして報じられたものに、「日本人に『犯罪はわりにあわない』ことを確信させること、二番目に・・・かつての東洋の敵と固い友情を結ぶこと」がありました。しかし、あなたは、裁判を行ううえでアメリカ人が本当に興味をもっていたのは真珠湾攻撃の復讐であった、という個人的な見解を述べました。
R:真珠湾攻撃はアメリカにたいへん強い印象を与えました。何千もの生命を犠牲にし、戦艦に多大な被害をもたらしました。調査委員会がアメリカで設置され、ショート将軍とキンメル提督に被害の責任があるかどうかが問題とされました。
 1941年11月にワシントンで交渉が行われたことを覚えていらっしゃると思います。日本の行動は、アメリカ、イギリス、中国、オランダの強い反発をさらに増幅しました。日本側にしてみれば、もっとも重要な問題は石油の輸出禁止です。日本はこの禁輸措置が棚上げにされることをもっとも望んでいました。11月26日、ワシントンの見解が鮮明になりました。インドシナ及び中国からの撤退が、経済的特権の代価となるであろうというものです。しかし、日本政府はそのような代価を支払おうとしなかったでしょうし、支払うことはできなかったでしょう。ハルの条件は戦争を意味し、彼もそれを承知していました。「事態は今やあなたがたの手にある」と彼はスチムソンとノックス(陸軍長官と海軍長官)に言いました。アメリカ政府は戦争が起こることを確信していましたが、日本によって開始されるように望んでいました。「日本が最初に戦端を開き、しかもわれわれがあまり甚大な被害を被らないように運ぶ必要がある」とハルは言ったのだと思います。
 それが1941年12月はじめの支配的な意見でした。野村、鈴木(来栖三郎の誤り、以下も同じ)両大使に対する日本政府の電文は解読されていたのです。

彼らはいずれ日本大使館の解読装置が破壊され、それが戦争開始のサインとなることを知りました。破壊が指定された時刻はハワイで戦端が開かれることを示していたのです。その時刻は午前七時三十分になるはずでした。しかしハワイの司令官に特別な警告は出されませんでした。破壊活動に対する警告が指示されただけでした。このため彼らは戦艦や戦闘機を密集させ、(大部分が日系の)ハワイ人による内部からの破壊活動に備えたのです。
 もちろん、そうすることによって彼らは外洋から飛来してくる日本軍の飛行機に格好の目標を提供してしまったのです。さらに11月27日、ハワイの司令官はマーシャル将軍からのメッセージを受けました。それは次のような文言を含んでいました。。「もし交戦がどうしても避けられないなら、アメリカは日本が最初に明確な行動を起こすことを望む」・・・・
 ご存知のように、真珠湾攻撃はアメリカ海軍に大損害を与えました。誰に責任があるのでしょう。アメリカ政府は攻撃を予見していたにもかかわらず、攻撃中止を恐れて適切な警告を与えなかった、というのは真実でしょうか。このような警告は疑いなくハワイに歴然たる効果をもたらし、それは東京の知るところとなって、攻撃は中止されていたでしょう。しかし政府は日本が戦端を開くことを望んでいたのです。この見解は、報告を受けたときのスチムソン陸軍長官の反応から裏づけられます。壊滅的な被害の報告を受けたあとでさえ、彼には一種の安堵感があったように思えます。
 多くの人々は真珠湾攻撃に関してはワシントンを責めました。調査が行われた後の、いまとなってもなお同じです。しかし真珠湾攻撃の直後は、現地司令官の職務怠慢のせいだと考えられました。彼らが実際に起訴されることはありませんでしたが。・・・・
 事態の解決のために簡単な方法があったのです。日本のせいだ、日本が卑劣かつ言語道断な方法で行動を起こしたせいで高潔なアメリカ人はその攻撃を予期できなかったのだ、と主張することです。・・・・
 裁判でも、ハワイ攻撃の犯罪的な卑劣さがアメリカ国民と全世界に明らかにされることが望まれたのでした。
 マッカーサーも同様の立場をとりました。彼は私に、東京裁判には反対である。その理由は戦争責任に関する起訴状にある、と素直に語りました。彼は簡潔な裁判を望んでおり、真珠湾奇襲のみを扱えばよいと語りました。真珠湾の復讐は果たされるべきであり、真珠湾攻撃には凶悪犯罪、戦争法規の重大違反の烙印が押されるべきなのでした。・・・・
 法的に真珠湾奇襲に関する訴因はまったく合理的でありませんでした。事実、1907年にハーグで正式な宣戦布告を行う義務についての条約[開戦に関する条約]が締結されており、該当する訴因はそこにいくばくかの基礎を置いていました。
 1907年のハーグにおける交渉を通じて、オランダ代表は宣戦の布告と軍事行動との間に特別な時間を算入するよう提案しました。オランダ代表はこれら二つの出来事の間に24時間を算入するよう提案したのだと思います。皮肉にも、その提案はアメリカ代表の拒否にあいました。奇襲の可能性を除外しかねないというのが彼らの拒絶の理由だったのです!
引用終わり

 さいごの部分、当時のアメリカがいかにご都合主義であったかがよくわかる内容です。門戸開放にしても自らは行わず日本にだけは要求するなど、やり方の汚さがよくわかると思います。
posted by 小楠 at 07:16| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判
この記事へのコメント
>「事態は今やあなたがたの手にある」

よく引用されるこの台詞ですが、
一歩引いてみるとその真意って
不明なんですよね。ちなみに
その後の査問委員会で、ハルは
「国務省の権限を軍部に丸投げしたと理解されたならそれは思っても見ないことだ!! 国務省の管轄と軍部の連携は相応のバランスに基いて運用されるべきものであるが、それが難しくなってきたと言うことを言いたかったのだ!!」といってますね。言い訳かもしれませんが。

この台詞、「もういい、後は勝手にやってろクソどもが。」って投げやりなトーンに置き換えると色々辻褄が合っちゃったりします。w
Posted by 薔薇帯 at 2006年12月29日 22:01
アメリカの体質は建国当初以前より全く変わっていない。ある意味「不変の国」だと思います。フロンティア精神と称し虐殺と土地を奪った事、これに尽きるかと。
Posted by サウザンドキル at 2006年12月30日 09:34
薔薇帯様
どちらにしても、ハルノートは戦争を意味していますね。立場を逆にして考えれば明白でしょう。

サウザンドキル様
>>虐殺と土地を奪った事

高々二百何十年の歴史のうち、ほとんどが領土拡張の戦争でしたね。
人道に対する罪で最も裁かれなければならないのはアメリカでしょう。
Posted by 小楠 at 2006年12月30日 13:43
ハルノート関連はいまだ謎な部分が多いので、迂闊に断定しちゃうと痛い目を見てしまう、という慎重な立場を私は取っております、何十年先になるかはわかりませんが、歴史家によってハルノートの謎の確信たる「暫定協定案をなぜ添えなかったのか」の回答が出るまでは。
Posted by 薔薇帯 at 2006年12月30日 20:47
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