2006年12月28日

レーリンクの東京裁判3

東京裁判の誤解による処刑
広田の処刑はいやな体験だった。


「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は起訴状朗読
kiso.jpg

引用開始
C:あなたの「反対意見」における広田の無罪と多数派決定おける死刑判決の相違は、広田の「外交政策」の新しさの解釈にあり、それは裁判においては大部分の人に理解されなかったというわけですね?
R:そうです。それは大部分の人にとっては非常になじみのない考え方だったのです。つまり非常に新しい戦略であり、理解を得てはいませんでした。1936年の「国策の基準」の中にある「我が外交政策はもっぱら円滑かつ友好的方法で国家計画を遂行し」という項目は便宜的なものとして考えられていました。しかし、そのような解釈はこの政府文書が極秘であり、ひとり政府部門の指針とされていたという事実を見逃しています。・・・

C:当時、日本の世論は広田の場合を<除き>、東京裁判判決を大筋において受け入れていたと報道されています。『ニューヨーク・タイムズ』には「明らかに日本人は、広田は軍の支配のもとで道具としての役目を果たしたにすぎないと依然として考えている」とあります。そのような誤解にもとづいて絞首刑が執行されるのを見るのはおぞましい体験だったでしょうね。
R:はい。まったくいやな体験でした。しかし、後に事態はもっと劇的に推移しました。ご存知のように国連憲章の基本的な意図は人権の推進にあります。1966年の二つの人権に関する条約には自決権に対する人民の権利について同趣旨の条項があります。国連憲章の意図する万国共通の人権の認識、とくに民族自決の権利は植民地主義と相容れないものです。
 ですから、早急に植民地制度が廃止されたことは理にかなったことでした。1960年の植民地独立付与宣言において植民地関係は違法とされ、後に総会で犯罪とさえ決議されたのです。これによって、総会は民族自決のための闘争を促進することになりました。それは「自由の戦士」を適法と認め、国連加盟国に自由の戦士を支持するように求めたのです。要するに、国連は民族自決の推進のための「破壊活動」それ自体を承認したわけです。四半世紀も経たないうちに、国連は広田が死刑になったと同じ政策を採択することになったわけです。

C:以前、あなたは連合軍の犯罪が法廷の多数派意見によって不適当として除外され、弁護団はそれを証拠に編入することが禁じられたと述べられましたが。
R:そうです。判事席に坐っている国々によって行われた戦争犯罪を証明することはもちろん、言及することさえ弁護団には禁じられたのです。

C:七人の多数派意見を構成したのは誰たちですか。
R:アメリカ、イギリス、中国、ソ連、フィリピン、カナダ、ニュージーランド出身の判事です。

C:しかし、どのようにして多数派ができたのですか。投票のための会合が開かれたのですか。
R:いいえ、判事室で討議した結果七人のグループが構成されたわけではありません。彼らは判決を書くことを内密に決めていたのです・・・
その七人は草稿を作り<既成事実>として他の四人にその成果を渡しました。これは東京憲章の重大な違反であり、この点で私はベルナールと意見を同じくしました。

C:ところで、刑の執行にはあなたや他の判事は立ち合ったのですか。
R:いいえ、私の申し出は拒絶されました。私は、死刑を宣告した判事は刑に立ち合うべきであると考えたのです。しかし、他の判事や占領軍当局は同意しませんでした。

C:起訴状中の主たる訴因と法廷の多数派意見が達した結論を比較すると、法廷の多数派意見は、[通例の]戦争犯罪と平和に対する罪の二つの主たる訴因を支持していたと考えますか。
R:はい、大部分の訴因は、以前ふれたように、「不法戦争における殺人」の訴因以外は支持されていました。
 裁判所は多数派意見において、張鼓峰(1938年)およびノモハン(1939年)での国境戦に関する訴因さえ支持していました。それは侵略戦争と考えられたのです。しかしそれらは(和平条約ではなく)交渉によって決着していましたし、後に不可侵条約(中立条約)が結ばれたのです。私の意見ではこれらの国境紛争は第二次世界大戦の一部とはけっしていえません。したがって、すでに法廷の管轄外なのです。また訴因では日本が東南アジアの白人の殺害を企てたとして、それをヒトラーがヨーロッパのユダヤ人に対して決定した<最終的解決>方法になぞらえています。しかしこの訴因は証明することができませんでした。日本はアジアから植民地勢力を駆逐しようとしていました。しかしヨーロッパ人の絶滅計画はありませんでした。
引用終わり。

 日本が戦争もしていないソ連は、逆に戦闘が中止された後に日本を侵略してきました。こんな国が判事席についていたのですまた列強は再び東南アジアの植民地化を推進し再侵略を開始していました。
 この一事だけでも、この裁判が茶番劇であったことが窺われます。
 
posted by 小楠 at 07:50| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の東京裁判
この記事へのコメント
読めば驚くあの東京裁判の内幕ですね

今度、東京裁判に関する政府資料がアメリカで公開されるそうですが、さて、どんな資料が出てくる事やら

それに来年から靖国での展示が変わるそうです
ハルノート等が資料として展示され訪れた者の判断に任せられるそうです
見比べればハルノートの欺瞞がはっきり判ると思います
Posted by take at 2006年12月28日 20:34
take 様
>>ハルノートの欺瞞がはっきり判ると思 います

読んだすべての人が、これの意味したところを正確に把握し、日本が先の戦争にどのような事情で進んだのかが解れば、かなりの効果があると思います。
Posted by 小楠 at 2006年12月29日 07:42
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