2006年12月25日

特攻宿舎勤務婦人の便り

特攻隊員の父母の許へ知らされた消息

田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
tokko.jpg

引用開始
 この日は突入に成功し、辻少尉、今野少尉、白石少尉、稲葉少尉らは、ついに帰ってこなかった。親しくつきあった、基地の特攻隊宿舎勤務の婦人より、辻少尉の消息が父母の許に知らされた。

「若葉茂る新緑の候となりました。
 皆々様には、お元気にておくらしの御事と推察致します。
 私は、ふとした御縁により、ご子息俊作様とお知り合いとなり、今度、俊作様、特攻隊として出撃遊ばされる時、最後の事を頼まれたのでございます。
 俊作様が、特攻隊として屏東から当地花連港に前進していらっしゃって、お泊りになるところに、私は勤めております。兵站宿舎でございます。
 その時は、辻少尉殿って、どういうお方なのか、名簿のみで存じ上げませんでしたけれど、第一回出撃をなさって、二、三日過ぎたある日、事務所にお見えになり、色々とお話などして居るとき、沖縄へ航進中、航空帽の上からしめている、日の丸の鉢巻を海に落した、とおっしゃりますので、では私が作って差し上げましょうと、心をこめて作って差し上げたのが、ご懇意にしていただく初めでございました。

 その日、私の家の方に遊びにいらしていただきました。私にも丁度、俊作様と同い年頃の弟がやはり、航空兵として入隊して居ますので、実の弟のような気が致し、及ばずながら母上様に代わって、できるだけのお世話をさせていただきました。
 特攻隊の皆様方は、魂の純粋な方ばかりで、今日、明日死んで行かれる人とは思われない、朗らかな方ばかりで、暗い顔の表情をした特攻隊員の方には、一人もお目にかかった事はありません。

 どうして同じ人間が、しかも若い青年の方が、あのようにニコニコの笑顔で、聖人も及ばない、偉大な心境で死んで行けるのか、不思議に思うくらいでした。
 本当に、男らしい、ほれぼれするような方ばかりでありました。
 皆さん方は、心のやさしい、親思い、兄弟姉妹思いの方ばかりでありました。
『魂がきれいで、心が温かい』から『祖国』のためにと、大切な生命を捧げ、特攻隊に志願して、ニッコリ笑って出撃され、勇敢に死んでゆかれたのだという事をわからせていただきました。」

「私は、多くの特攻隊員の方をお世話させていただき、『祖国に殉ずる』『他のためにつくす』このような清純な魂の青年の方から学ばせて頂いたのは、私の宝であります。
 特攻隊の方々は、後に続く青年を信じておられました。それは、「自分たちは戦争で死んでゆくが、平和になったら生き残った青年が、世界から尊敬される、立派な、平和国家日本を再建してくれる」と信じて、安心して死んでゆかれたと思います。

 私は、『平和日本』『文化日本』の再建こそ、この、『理性と、知性と、勇気』を持たれた特攻隊の青年の方々に、生きてもらわねばならないと、惜しみと、悲しみの涙で一杯でございます。
 この偉大な、すばらしい男性を育てられたのは、歴史と伝統につちかわれた、『日本精神』の心を持つ『日本の母』の皆さま方、『母上様』方と、心から敬意をささげます。

 私は、特攻隊の方々のお世話をさせていただき、悲しい、淋しい思いもさせていただきましたが、気がついてみると、『祖国に殉ずる』『他のためにつくす』『犠牲的奉仕の精神』の尊さ、すばらしさを学ばせていただきました。
 これは私の『宝』です。一人でも多くの方々に語りつぎたいと思っています。

 初めてお出でになった時、母と二人で、うどんを作って差し上げました。とても喜ばれ、『自分の好物はうどんだ。屏東にいる時、兵隊を買いにやったが、どこにもなかった。花連港にきて、うどんを食べられようとは、夢のようだ。これで満足して死んで行ける』と、それはそれは、とてもお喜びになりまして、その時は丼に三杯も召し上がりになりました。私たち家族一同はこんなに喜んでいただけるとは思って居ませんでしたので、本当にうれしゅうございました。

『美枝さん、辻少尉の最後の頼みがあるんだ。おれの戦死が確定したら、内地に知らせてくれ。好きなうどんを腹一杯食べて、喜んで征った事を、なあ。最後に気になるのは、親のことなんだ。おれの最後を知らせてやったら、どんなに喜ぶかも知れない』と、しんみりした口調でおっしゃりました。

『ええ、必ずお母さんにお知らせしますよ。その事は決して心配なく、後々の事はきっと引き受けますから安心して下さい』と申し上げると、ほろりと涙を流され、にっこり笑って、『これで思い残す事はない。安心して死ねる』と、大変喜んでいただきました。

 何時間の後には『靖国の神』となられる、最後の頼みをどんな事があっても、果たして差し上げたい。安心して征かせたい。というのが、私の気持でありました。
 本日(五月十七日)午後五時離陸、永遠に帰らぬ攻撃に征かれました。今尚、にこにこ笑いながら、宿舎を出てゆかれたお姿が浮かんで参ります。

 体当たり攻撃の時間は、『午後七時四十分から、八時までの間』その時間に見事体当たりを成功するようにと、妹と二人で神社にお参りして祈らせていただきました。
 今朝(十八日)出勤して、戦果をお伺いしましたところ、見事、輸送船に体当たりされた由、今更ながら、俊作様の面影をしのんでいます。
 戦果確認の目的で、一緒にゆかれた中尉のお話では、編隊長として、見事な編隊を指揮され、終始、ニコニコされ、最後には、お互いに翼を振って別れ、従容として輸送船に突入してゆかれた、との事であります。
 軍刀と、軍帽は、特攻隊の遺品係に渡してあります。
 同封の手紙は、最後(十七日)にお書きになった、俊作様の絶筆であります。

 大切な事を忘れていました。体当たりの時間は、五月十七日十九時三十五分だそうです。
 つきぬ思い出を、長々と書かせていただきました。
 では、皆さま方お元気でおくらし下さるよう、はるか台湾の果てより、皆さま方の幸福をお祈りして、ペンをおきます。
昭和二十年五月十八日
台湾花連港市営盤通一八
湯橋美枝」
引用終わり
posted by 小楠 at 07:22| Comment(2) | TrackBack(2) | 書棚の中の戦争
この記事へのコメント
太平洋戦争末期に散った特攻隊員の遺書ほど、澄み切った青空のような心で死に向かい合い、その心は一身の犠牲によって日本の将来を信じ昇華して往った絶筆だったと思います。考えれば彼等の家族愛・郷土愛・そして愛国心があったからこそ今の日本があるとおもっています。戦後日教組や左翼達が目論んだ教育の破壊が、61年目を迎えてようやく教育基本法の改正により歯止めがかけられました。特攻隊員の死が報われようとしています。
Posted by カピタン at 2006年12月25日 09:18
カピタン様
>>特攻隊員の死が報われようとしていま す。

この方たちさえ犬死のようなことを平気で言ってきた反日、左翼もいましたねー。
やっと、まともな国民の声が活かされるようになってきた感がしています。
Posted by 小楠 at 2006年12月25日 17:45
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/2778711
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

地下 核実験
Excerpt: インドは1974年5月18日に同地で地下核実験を行なったことがあり、24年ぶり の核実験を行ったことになります
Weblog: 地下 核実験
Tracked: 2006-12-25 15:32

紙風船情報
Excerpt: 紙風船情報
Weblog: 紙風船物語 郷愁を呼ぶ紙風船
Tracked: 2006-12-26 00:42