2006年12月06日

広安門と通州事件

今回も、鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」からの引用です。ここは残虐で有名な通州事件とその前の廊坊事件、広安門事件が記述されています。いずれも支那軍からの攻撃や襲撃事件です。特に通州事件は、当時の世論を激昂させた重大な事件ですが、どうも日本では隠そうとされてきたようですね。
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引用開始
 支那軍の猛射を受け応戦した日本軍は忽ちに盧溝橋を占領し、支那軍を永定河の対岸に追払い落し宛平県城、龍王廟を占領してしまった。そこで現地で次の停戦協定が苦心の上で結ばれた。

@ 第二十九軍は遺憾の意を表し、責任者を処分し、事件再発防止を声明すること。

A 宛平県城及び龍王廟に駐兵せず、保安隊を以て治安を維持すること。

B 抗日団体を徹底的に取締ること。

の三項目で交渉がまとまり、七月十一日夕刻、我が松井久太郎中佐(天津特務機関長)と張自忠将軍(第二十九軍最長老師団長)との間で調印が行われた。
 しかし、これは上部での交渉妥結に過ぎず、支那軍の抗日青年将校はこれを守ろうとはしなかった。この二十九軍というのは昭和十年の梅津・何応欽協定で中央軍が北支を撤退した後に入ってきた宋哲元の軍で、この二十九軍の中には張学良の東北軍(満洲軍)や中共軍の息のかかった抗日に燃える青年将校が沢山いたので、これらの抗日勢力は決して黙っている筈はなかった。
 これに油を注いだのが、既に中共の薬籠中の人となった蒋介石の声明であった。この声明は七月十九日に出された。その要旨は、

 「もし盧溝橋の武力占拠を容認するならば、中国四百年の旧都北京は敵の手中に落ちるのだ。かくて北京は第二の奉天となり、北支は第二の満洲となるであろう。北京が第二の奉天となるならば、南京が第二の北京と化することを如何にして防止することが出来ようか。故に盧溝橋を保全するか否かは、全国民存亡の懸かる所であって、吾々は如何なる犠牲を払うとも、断乎として抗争せねばならぬのである」

という激烈きわまるもので、まるでこれは宣戦の布告と申してもよい。
・・・

 この声明に呼応するかの如く、その六日後の七月二十五日に廊坊と広安門という二つの事件が起きた。廊坊というのは北京・天津間の小さい駅であるが、そこで日本の軍用電話線が切断された。天津軍の修理隊は北京政権の承諾を得て出動、夜半休憩中、支那軍に急襲されて損害を受け、翌二十六日早朝、援護部隊を急派して敵を退けたのであった。

 同日、北京の広安門では更に挑戦的な事件が起きた。この時、北京城内には支那軍二個師団が駐屯し、日本軍は僅か百名しかいなかった。そこで牟田口連隊長は盧溝橋方面から一個大隊を帰還させることにし、北京政権の諒解を得てこれを実行した。我が部隊が広安門を通過中、その半数が通った時に急に城門が閉鎖され、城外に残された部隊に向けて、突如城壁の上から急射撃を受けたのであった。

※酸鼻の極の通州事件起る
 七月二十九日、決定的に不幸な事件が起きた。北京の西の通州に於て二百人に及ぶ日本居留民が虐殺されたのであった。それは言語に絶する惨状であった。
 当時通州には、日本軍守備隊と特務機関が在留邦人の保護に当たっていたが、事件当日は、少数の憲兵と通信兵が守備しているにすぎず、その留守をねらって、日本人虐殺が決行された。

 事件は真夜中に起きた。中国側の保安隊三千人はまず日本の特務機関室を襲い、応戦した細木中佐と副官の甲斐少佐銃殺し、喊声をあげて日本人街にどっとなだれこんだ。
 当時通州には、男女合わせて約三百人余りの日本人が居住していた。街の中央には近水楼とよばれた旅館があったが、中国の反乱兵は銃声とともにこの旅館を襲撃した。別動隊は街中の日本人住居を襲い掠奪をほしいままにした。そして彼らは、およそ二百人近くの日本人を城壁のところに連行し、そこで皆殺しにしてしまった。近水楼にいた十数人の日本人女中は、ここへ記すも憚る無残極まる姿で殺害された。

 宿泊の日本人客らは、天井裏に隠れていたのを引きずり出され、みな数珠つなぎに縛りあげられ、同じく城壁まで連行され虐殺された。北京より日本軍が救助にかけつけたが、その時逃げ隠れして助かった生存者はわずか百三十一名でおよそ二百人もの大量な日本居留民が、無残に虐殺されたのである。これは通州に居住していた日本人の半数以上にあたる。

 東京裁判は日本国の昭和三年以降の行動を侵略国家と決め付けたものであるが、盧溝橋事件の段階では弁護側証人として立った当時の天津駐屯軍歩兵旅団長河辺正三中将、同参謀長橋本群少将、宋哲元二十九軍顧問桜井徳太郎少佐等の現地側、陸軍中央部の田中新一中将、河辺虎四郎中将、埼玉県大和田海軍通信所長和智恒蔵大佐等々の陳述により、形成は逆転し支那側は不利となるばかりで通州事件に入ってその感は深まるばかりであった。ちなみに通州救援にかけつけた第二連隊歩兵隊長代理であった桂鎮雄少佐の証言は次の如くであった。

 「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけ新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、きものは寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。帳場や配膳室は足の踏み場もないほどに散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本夫婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。帳場配膳室では男一人、女二名が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の屍体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」

 かくの如きであったので裁判が進めば進む程支那側が不利となることが明らかになるのを恐れ、一応の格好をつけて、この段階を足早に通り過ぎてしまったのであった。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:09| Comment(7) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係
この記事へのコメント
お久しぶりです^^
この通州事件の悲惨さは知っていたのですが・・・それでも吐き気を催すほどの事件ですね・・・・・。
この事件に触れずに南京事件などを持ち上げて日本を糾弾する中国共産党に対して恐怖を感じます・・。
Posted by サウザンドキル at 2006年12月06日 19:51
サウザンドキル様
お久しぶりです。
学校教育でも、ありもしない南京大虐殺を教えて、本当にあった南京事件や通州事件には知らん顔をしていますね。
小中高校生にも、本当のことをブログで知ってもらいたいものです。
Posted by 小楠 at 2006年12月06日 20:19
こんばんは。「嘘も百回言えば本当になる」ではないですが、彼ら(中共)のプロパガンダには毅然として対抗していかないといけません。まずは自虐史観を捨て去ることです。教育の見直しが必須ですね。日本では未だマスコミを含め及び腰ですが、世界的には中共の欺瞞に気が付きオリンピックのボイコットを提唱されるまでになってますね。
Posted by おばりん at 2006年12月06日 21:15
おばりん様
>>教育の見直しが必須ですね

私も最重要課題が教育だと考えます。
何も特別なことをやるのではなく、日本人が日本人になるために必要なことをしっかり身につける教育ですね。
Posted by 小楠 at 2006年12月07日 07:34
通州事件に関しては、1937年12月下旬、冀東自治政府と日本との間で謝罪、損害賠償が行われ、正式解決を見ているそうです。

なお、責任論で言うならば、通州事件を起こしたのは冀東防共自治政府の保安隊のうち張慶餘率いる第一総隊・教導総隊で、冀東政府自体は日本の傀儡なので、国民政府や八路軍が責任を負う、感じるというのはチト無理があるかと思います。「中国人が起こしたこと」であるのは間違いないですけどね。
Posted by 薔薇帯 at 2006年12月07日 18:05
薔薇帯様
>>正式解決を見ているそうです。

そうでしたか、それは知りませんでした。
薔薇帯様は色々詳しくご存知のようで、出来たら是非ブログで発表されたらと思います。
できるだけ多くの人に正しい歴史を訴えて行きたいですね。
Posted by 小楠 at 2006年12月07日 20:05
時間があれば是非やりたいんですが、
無理にやったら間違いなく身体壊しますので・・・。

というかそれ以上にキーボードに触ってディスプレイを爆発させる人種であるのが最大の問題なのですが。w
Posted by 薔薇帯 at 2006年12月09日 07:07
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