2006年12月05日

盧溝橋事件の詳細

中国の言う侵略は虚偽

 続いて、鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」からの引用です。ここでは盧溝橋事件の詳しい実況が伝わってきます。この内容を見て、どうしてこれが日本の侵略などと言えるのか、マッカーサー証言も広く世間に報せて、日本の教科書をはじめ、言論界、マスコミは、もういい加減にきっぱりと、日本は侵略戦争などしていないことを発言するべきでしょう。
この記事に対しておばりん様から教えて頂いたHP一文字山の星空では、その当事の盧溝橋事件に遭遇された元軍人の方が事件のことを書かれています。
写真は蒋介石(右)と張学良(左)です。
gakuryo.jpg

引用開始
 昭和十二年七月七日夜、天津軍の歩兵第一連隊第三大隊第八中隊百三十五名(中隊長清水節郎中尉)が北京西南方十二キロ盧溝橋北側の永定河左岸の荒蕪地夜間演習を終了直後、突如三発の機関銃空砲音が永定河堤防上の龍王廟付近より起った。時に七日午後十時半過ぎであった。
 続いて今度はピューンと云う音とともに三発の実弾が飛来した。盧溝橋事件の発端である。これが支那事変に拡大し、大東亜戦争に立ち到る歴史的瞬間であった。・・・・・

 支那軍から思いもかけず実弾を撃ち込まれた指揮官清水中隊長は、ただちにラッパ手に全員集合の吹奏を命じた。この時に部下の曹長が龍王廟と鉄道橋の中間で懐中電灯による支那軍の発光信号を認め、これを中隊長に報告しようと二三歩進んだところ、またもや連続十数発の実弾が頭上をかすめた。
 中隊長は、ただちに全員に伏せを命じ、この旨を大隊長に急報すべく、二名の伝令を騎馬で大隊本部の豊台へ走らせた。この時、清水中隊が携行していたのは演習用の空砲のみで実弾は持っていなく鉄兜も携行していなかった。

 報告を受けた一木大隊長(後にガダルカナルで戦死)は直ちに非常呼集を命じ、北京の牟田口連隊長に電話で報告した(この時、河辺旅団長は第二連隊の中隊検閲のため出張不在)。
 連隊長は「大隊主力を以て現地に急行、夜明けを待って支那軍と交渉せよ」と命じた。一木大隊長以下が現地に到着したのは翌七月八日午前三時二十分であった。その直後の二十五分、同大隊に向けて盧溝橋方面より第三回の射撃を受けた。

 大隊長は通信班によって開通した現地と連隊本部との電話で第三回目の射撃を受けたことを報告、指示を求めた。連隊長は熟考のすえ「攻撃してよろしい」との命令を下した。

 牟田口連隊長は、後にこの時の決心について「盧溝橋事件発端の真相に就いて」の手記に、次のように記している。
 <「三時二十五分と言えば既に彼我の識別が明瞭に分かるのではないか」(注・現地日出時間午前四時四十二分)、大隊長曰く「左様です、明瞭に明かです、支那軍は確かに日本軍と分って射撃したものと思います」と。自分は茲に於て、「夜間のことで日本軍と分らずに射撃したと支那側の申分も立つかと言う一縷の望を属した平和的交渉の余地も全然無くなった。
 日本軍であること明瞭になった此時に更に射撃を始めた。之は日本軍を侮辱するものである。此の上更に隠忍を重ねることは益々支那軍を増長せしめ日本軍の威信を失墜するものである。最早此の上は自衛権の発動も已むを得ない」と決心した
とある。ここで一木隊長は断固攻撃命令を発したのであった。・・・・・

 以下は、宋哲元第二十九軍軍事顧問桜井徳太郎少佐の話しです。

桜井「森田中佐と林耕宇とを一文字山の現場に残し、それ以外の日支双方の代表が宛平県城に入り、支那軍の大隊長を交えて協議した。そこの支那軍も僕の教え子の馮治安師団の部隊なんだ。・・・」

鈴木「・・・支那軍側は、七日の真夜中に最初に射撃したのは、付近にいた西瓜畑の番人か匪賊か何かが射ったのではないか、当方には心当たりがないというように言っていたとのことですが」

桜井「そうなんだ。県城内の支那軍の大隊長がそう言うんだ。自分の部下は全部城内にいて、城外には出していないと言うんだ。ところが、会議を開いている最中に城外で、ものすごい射ち合いが始まった。そこで僕は、直ちに支那軍の大隊長を連れて県城の城壁にあがって行った。棒切れの先に白い布切れをつけてね。
 城壁の上から見ると日支両軍が、ものすごい勢いで交戦しとるんだ。支那軍も充分一個中隊はいるんだ。日本軍もそんなもんなんだ。西瓜の番人なんかじゃないんだ。やはり支那軍が出ていて最初から射ったんだ。両軍とも極度にハラカイテ緊張しとるんで、セキを切ったようにどっどっと射ちまくるんだ。そこで僕は、得意の大音声を張り上げて日支両軍を怒鳴りつけた。『射つなッ!射ったら貴様死刑にするぞッ!やめろ!』とね。そして、支那軍側は大隊長に制止させた。こういう時は、言葉じゃない、気魄、気合いだからね。これで双方とも一旦射ち合いをやめた。随分長い時間と思ったが、記録で見ると、ほんの十分間だ。それでまた城壁から降りて会議を続行した。支那軍の大隊長は、わしに現場をおさえられたんで、とうこうならんのだ。それで一応は停戦交渉が成立し、支那側は撤退を約したんだが、その日の夕方、支那軍側が協定を無視して又々攻撃に出て来たので、牟田口連隊長は遂に積極的な反撃を命じ、同夜九時、龍王廟の占領を行ったわけだ。」

鈴木「一旦は停戦協定はまとまったんですね。」

桜井「その場でもまとまったが、龍王廟占領後も、翌朝、更に改めてまとまり、支那軍を永定河の右岸に移らせ、宛平県城には警察隊を入れ、日本軍はひとまず一文字山の線まで後退させたんだ。しかし結局とめられなかった。」

 この中で、「会議を開いている最中に城外で、ものすごい射ち合いが始まった」という場面。これが盧溝橋事件の交戦発端である。時刻は七月八日午前五時三十分であった。
 従来、盧溝橋事件は七月七日午後十時半に始まったが通説であるが、これは誤りである。正しくは七月八日午前五時半で、その間に七時間の差がある。
引用終わり

 ご存知のように支那の条約、協定違反は毎度のことです。そして結果を日本のせいにするのが常套手段。
 もし日本に侵略の意図があるなら、このような応戦にはならず、最初から大軍を送って一気に支那軍を殲滅していたでしょう。まして相手から攻撃をしかけてくれた絶好の機会に停戦協定など結ぶ訳がありません。
 
posted by 小楠 at 07:47| Comment(15) | TrackBack(1) | 書棚の中の日中関係
この記事へのコメント
私は日中15年戦争に関してはやっぱりどっちもどっちってのが最終的に行き着いてしまうところだと思います。
「どっちが悪い」というのは不毛な議論になってしまうと思います。
お互い(日本も国民党も)言ってる事とやってることが乖離しすぎていて、疑心暗鬼の泥沼にハマって収拾つかなくなった結果があれですからね。

また、日本が侵略の意図を持っていたかどうかはともかく、その実態が侵略であったのは紛れもない事実で、その辺は屁理屈こねずに認めるべきであると、私は思ってます。(だからといって中国に対して謙った態度を取ろうとも思わないですが)

盧溝橋事件に関しては秦郁彦氏、安井三吉氏。日中戦争全般に関しては大杉一雄氏の「日中15年戦争史」が私の第一のソースです。

※よく言われる「中共の陰謀説」「マッカーサー証言は日本の自衛を証明するもの」ってのは歴史小説のネタと考えて良さそうです。
Posted by 薔薇帯 at 2006年12月05日 17:59
すでにご存知かもしれませんが、最初の発砲時に現場におられた90歳のおじいちゃんが当時の様子をHPに公開されてますね。茅ヶ崎市傷痍軍人会会長 山崎 直人氏 「一文字山の星空」
http://www002.upp.so-net.ne.jp/keisetu/
事件当夜、夜間演習において仮説敵として撃ち込まれた現場に居られた様です。現代の人が実しやかに間違ったことを伝えていたりされていることを憂いておられます。
Posted by おばりん at 2006年12月05日 18:39
薔薇帯様
色々な本が出ていますが、私は日本人、外国人を問わず当時をその場で知っている方の証言を探して読んでみたいと思っています。勿論プロパガンダ以外ですが。

おばりん様
いいページを教えて頂き有難うございます。
今回紹介した本の内容とはっきり一致していますね。
このような貴重な証言者は大切にしたいですね。
Posted by 小楠 at 2006年12月05日 20:21
おばりん様、ご紹介のサイトは貴重ですね。発砲が支那軍側の謀略であることがよく解りました。
これ以上にないくらいの当事者が未だご存命とは恐れ入りました。
最近の書き込みがないようですが、ご健康なのでしょうか。

小楠様
一連の支那事変に関するエントリーは大変勉強になります。
この辺りの事情は非常に複雑で小生もなかなか時系列との関連性を理解できないのですが、少しでも理解しようとしてます。
この複雑な当時の状況が、日中戦争は日本の侵略だと言わしめてしまう素因になっているのでしょうね。
Posted by kousotsudr at 2006年12月07日 10:14
kousotsudrさん、こんばんは。「もののふのこころ」たまに読ませていただいてます。「一文字山・・・」はもともと同じヤフーブロガーの「もあい」さんのブログ、「おやじの独り言」で知ったのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/moai33jp
支那軍というより、潜り込んでいた中共の手先と理解したほうが良いのでしょうね。「日中戦争は日本の侵略だ」と言わしめるのは、状況の如何にかかわらず中共が言ってるのであって、中国国民の声ではないと思います。江沢民以降の反日教育を受けてる連中は洗脳の効果大で過激になってるようですけどね。
Posted by おばりん at 2006年12月08日 00:18
kousotsudr 様
>>当事者が未だご存命とは恐れ入りました。

このような方の証言は貴重ですね。日本軍の行動はずっと和平を求めながらの応戦一方だということがよく分かります。

おばりん様
>>支那軍というより、潜り込んでいた中共の手先

これについては三田村氏の「戦争と共産主義」に詳しく書かれていました。
Posted by 小楠 at 2006年12月08日 07:43
はじめまして。おばりんさんからブログの紹介を頂いた『もあい』と申します。
この盧溝橋事件の当事者であるおじいちゃんには、昨年の11月に直接お会いして話を聞く機会がありました。
おじいちゃんは、最近更新なさっていないようですが、ご自身でブログも開設なさっております。
http://blogs.yahoo.co.jp/naotopb37010
ここと
http://plaza.rakuten.co.jp/taishouojiichan/

です。陥落直後の南京にも入場されており、本当に貴重な歴史の生き証人です。
インタビューした時の記事は、私のブログの『歴史の生き証人』書庫でも御覧いただければ幸いです。
おじいちゃんの貴重な体験談、多くの方に知っていただきたい・・・そう強く願っています。

長々と済みませんです。m(_ _)m
Posted by もあい。 at 2006年12月08日 23:02
もあい様
ご連絡有難うございます。
>>陥落直後の南京にも入場されており

先ほど少し拝見しました。当事の南京入場者で現在もご生存の方は皆さん、虐殺など見たこともないと言われてますね。
当事南京へ入った内外のジャーナリストも、誰も見たことも聞いたこともないと言われてます。
もういい加減にこんなものは大嘘として中国以外では常識になってもらいたいものです。
Posted by 小楠 at 2006年12月09日 11:04
こんにちは。コメントありがとうございます。

私がブログで紹介している、盧溝橋事件の『当事者の一人』であるおじいちゃんの証言、とても重要なものだと思うのです。

記事で紹介されている、盧溝橋事件の詳細と、おじいちゃんの証言で若干食い違っているところがあるようです。

細かい点ですが、案外重要かと思い、いくつか上げて行きたいと思います。

○事件の夜の訓練は、初年兵の3ヶ月間の訓練の仕上げとして行われていたもので、参加者は約80名。そのうち仮設敵役は上等兵と初年兵二人の三人であった。(135名との記事と相違)

○当時の訓練の際、薬箱に空砲30発、実弾30発を詰めて行動する。(空砲のみではない)

○3発の銃弾を受けた後、朝まで発砲は行われていない。(連続十数発の発砲との証言との相違)

その事件の後、中国軍との話し合いが持たれたのは記事と同じ証言がされています。

訓練を俯瞰する場所で、中国軍の動きも見ておられた方、そして銃弾の着弾地点も現認し、恐らく永定川に作られた壕からの発射だろうと証言されています。かなりの距離があるので、弾は放物線を描くように計算して撃たなければならない。恐らく昼間のうちに狙いをつけていたのだろう。現に、演習の部隊は、中国軍に阻まれている・・・

この辺の証言は、やはり当事者でなければ出来ないことだろうと思います。
Posted by もあい。 at 2006年12月09日 12:14
もあい様
ご指摘有難うございます。
あの記事で見られる中国軍が塹壕でしたかを掘っていたということも初めて知りました。
事実はこうしてだんだん明らかになってくるものですね。
日本の歴史も早く正常になって欲しいものです。
Posted by 小楠 at 2006年12月09日 12:45
ごぶさたしてます。もあいさんは、茅ヶ崎の傷痍軍人会会長のおじいさんの証言を ここでも紹介していてくださったのですね。私も、できるだけ おじいさんの証言をご存命中に広めようと心を砕いているのですが、歯がゆいばかりです。もあいさんの 真摯なご努力に感謝致します。
Posted by 屋根の上のミケ at 2007年04月24日 01:23
屋根の上のミケ様
>>歯がゆいばかりです
お気持ちよく解ります。他国の姿勢を変えることはほとんど難しいですが、問題は日本国内の反日の輩やマスコミです。
組織の崩壊は内部からが最も事例が多いでしょう。
Posted by 小楠 at 2007年04月24日 08:19
ご無沙汰しています。

残念なお知らせをしなければなりません。

盧溝橋事件の生き証人であったおじいちゃんですが、9月12日にご逝去されたと連絡がありました。
仲介して下さっていたパソコン教師の方が最後にお会いしたのが昨年の9月だそうで、その時はお元気なご様子であったとか。
もう一度お話をうかがうべきであったと残念に思います。

ここにお知らせすると共に、ご一緒にご冥福をお祈りいただけないでしょうか。
Posted by もあい。 at 2007年09月21日 23:16
訃報です。
山崎 直人氏が12日に逝去されたようです。
http://blogs.yahoo.co.jp/moai33jp/51136829.html
Posted by おばりん at 2007年09月21日 23:20
もあい様
大変残念なことですね、こうして生き証人の方々がだんだん少なくなってしまいますが、あの方はネットを通じて当時の体験を我々に知らせて下さった数少ない方でした。
本当に残念ですが、謹んで故人のご冥福をお祈りするのみです。
あのページは誰か受け継ぐ予定になっているのでしょうか?

おばりん様
お知らせ有難うございます。私の持って居るシナ事変当時の書籍と、あの方のページは完全に一致しています。
当時の新聞報道は事実をそのまま伝えていたのに、今は全く世の中に害毒を流す存在に成り下がっていますね。
今度の総裁選などは典型的です。
Posted by 小楠 at 2007年09月22日 08:06
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/1971137
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

中共の民間組織と歴史認識
Excerpt: 69年前の今日、12月13日は支那事変において南京が陥落した...
Weblog: もののふのこころ
Tracked: 2006-12-13 21:34