日本人のものの考え方、日本人の心に共通する性質を形作ってきたものの原点を日本の神話から、そしてその特徴がどのように現代に生かされてきているのかを見てみようと思います。
渡部毅著「愛国心の教科書」から、そのあたりのことをご紹介してみます。
引用開始
※寛容の精神
「日本では神道を信じながら同時に仏教徒であり、しかも儒教をも否定しないという寛容な宗教的伝統がある」
こういっていたのは、杜維明ハーバード大学教授ですが、「寛容な宗教的伝統」というのは、日本神話の中によく示されていると思います。
その一例として注目したいのは、アマテラス大神の存在です。アマテラス大神は、日本神話の中でもっとも尊い神とされますが、女神です。これは世界の主要な神話の中では珍しく、たとえばギリシャ、ローマ、ゲルマン、エジプト、ペルシャ、中国などの神話の最高神は、すべて男神です。
しかも、これらの最高神は自分の地位を獲得するために、敵対神(自分の親や祖先であることが多いことも特徴)と血みどろの殺戮や戦いを行っています。
これに比べてアマテラス大神は、父親のイザナギの尊から天上の神々の女王になるよう命ぜられ、誰からの抵抗や反対も受けず、平和裏に最高神の位についています。
しかも、アマテラス大神の性質はじつに優しく、弟のスサノオの尊が田圃の畦道を壊し、神殿に大便をするなどという相当な乱暴をしても、それをかばい、再度乱暴を働いて機織女が犠牲になっても、殺したり罰したりせず、自分自身が天の岩戸に隠れて諌めようとする寛容さ、柔和さがあります。罪を犯す者や反攻する者を容赦なく罰して殺す他の神話の最高神とは、大きく異なっています。
アマテラス大神は、自分が一番偉いのだといばったりはしません。つつましく謙虚に他の神々を祭り、そのための神衣を織る仕事も自ら行っています。また、葦原の水穂の国を治める適任者を決めるときにも、独断をせず、八百万の神々を集めて会議を行い、それに従って意思決定をしています。
このように、神話の中で示された最高神・アマテラス大神の「寛容さ」は、日本人の精神に大きな影響を与えました。
杜維明教授が、「日本では神道を信じながら同時に仏教徒」であるといったように、たとえば聖徳太子は、仏教の経典を深く研究して、仏教普及に尽力していますが、その一方で神道興隆の詔を出しています。
ですから、仏教徒たちからも伊勢神宮は尊信され、参詣もごく普通に行われていました。
西行などもここを訪れて、
「何事の おはしますかは しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」という歌を残しています。
日本で大乗仏教が完成したのは、日本が神国だからであると虎関師錬は『元亨釈書』の中で説いています。師錬の他に日蓮、一遍などの仏教思想家の中にも、神国思想が大きく反映され、末法の世を救うすぐれた仏教がわが国に出現したのは、日本が神々の加護を受けているためだという主張が展開されているのです。
※道義の伝統
心理学者の河合隼雄さんが、文化交流でエジプトへ講演したときに、参加者の一人から、「イスラムでは、いつも神に祈っているが、人をだます。日本はお祈りをしないのにモラルが高いように思えるが、なぜなのか」と質問されたそうです。
彼は東京駅でカメラを忘れたそうですが、それが保管されていたことにびっくりしたとのこと。「大都会で上等のカメラが戻るのは世界でも日本しかない」といっていたそうです。
たしかに、こういうモラルの高さが、わが国の国民にはありますから、世界でも珍しい「無言商売」が成り立つのでしょう。
「無言商売」とは、今でも田舎のほうに行くとあるのですが、野菜や花、卵などを売っている無人の売店による商売です。商品が欲しい人は、箱の中に代金を入れて持っていくという商法ですが、相互信頼と正直さが根底になければ成り立ちません。
また、阪神淡路大震災で家が壊れ、着るものもないときにも、百貨店やスーパーなどから略奪したり、暴動を起したりする者は一人としていませんでした。物を買うのでも一列に並び、お金を出して買っていましたが、こんなことができる国民はおそらく日本人だけでしょう。世界の人たちはこの光景を驚嘆の眼差しで見ていました。
河合さんは先の質問に対して、「日常生活と宗教性がうまくミックスしているからだ」と答えたそうですが、それにつけ加えるとしたら、「日本には道義の伝統があるからだ」といえるのではないかと思います。
・・・略・・・
奈良・平安時代を通じて宣命(天皇の命令を伝える文書)の中で、慣用句のように使われた言葉が、「正直」でした。わが国では、道義の中でも「正直」という徳目が特別重んじられてきたのでした。
この言葉が国民の生活の中に浸透して、身近な徳目として定着していくのは、上代の後半から中世の初めにかけての頃のようです。「正直の頭に神宿る」ということわざが現れるのも、この時期です。
やがて、北畠親房は『神皇正統記』の中で、三種の神器の鏡について、
「鏡は一物もたくわえず、私心を去って、万象を照らせば是非善悪の姿がそのままにあらわれぬということはない。その物の姿どおりに感応するのが鏡の徳であるから、これは正直の本源である」と述べています。
三種の神器の中でもとくに重んぜられるのが鏡ですが、この鏡の象徴する徳目が「正直」だというのです。
引用終わり。
正直については、「日暮硯」なんかも結構面白かった記憶があります。もう一度見てみようかなと。
2006年11月17日
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まぁ、外国人には到底理解できない、日本人の考え方の代表例でしょう(笑)。今も昔も…。
抜擢された恩田木工の人の使い方も大変参考になりました。
あとは彼の率先垂範と正直の徹底一つだけでも改革が成功するという見本ですね。
早く、多くの国民に、その心を取り戻してもらいたいものです。
ニッポン人の心を…。
ちょっと、主文とズレたコメントで申し訳ありません。
ご容赦ください(礼)。
>>ニッポン人の心を
日本人の間だけでなら通用する心情的なものが厳然と存在するのでしょう。
この基準で外国を判断してしまったことが、間違いでしたねー。