ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はチャンドラ・ボース氏の軍刀を返還する筆者、左はボース氏の実兄S・Kボース氏

引用開始
十一月の初め、私は、厳重に手錠と捕縄をかけられた上、一個分隊のグルカ兵に物々しく警備されて、クアラルンプールの刑務所に転送された。施錠の手に、毛布に包んだ身の回りの品を持たされ、駅の待合室の土間に、しゃがませられ、現住民旅客の眼に晒し者にされた時の口惜しさは、得も云われぬものであった。
この刑務所には、八百名の現地人囚人の中に、七十一名余りの日本軍戦犯容疑者が収容されていた。既に死刑の判決を受けた二名の獄友も含めて。憲兵と刑務所関係の司政官が主であった。チャンギ―と異なって、取り調べが終わり、容疑の晴れた者は、苦役を課せられたが、大部屋に収容せられ、食事の量は豊富であった。刑務所外の苦役(官舎の薪割り、椰子の実のガラ拾い等)は、娑婆に飢えている私達には、却って楽しかった。その上、留守のボーイやコックの同情から、白いパンや煙草にありつけることも、一同の人気を買った。自由を失った者には、こんなささやかな自由でも、その有難さが心に沁みるのである。自由に浸っている者には、自由の有難さ否自由を満喫していることさえも意識出来ないのではあるまいか。・・・・
平穏な日々が続いて、年も改まり、三月を迎えた。帰国の好運を夢見ることが多くなった時、突然訊問の呼び出しがかかった。・・・・
禿頭大柄の局長は、五十の坂を越していると見えた。意外に柔和な態度と口調で、マレイの探偵局長であることを告げた後、F機関の工作経緯について、三日間にわたって訊ねたいから、素直に答えてくれと前置きした。
バンコック以来の工作経過、印度工作、サルタン工作、スマトラ工作、マレイ青年連盟工作、ハリマオ工作、華僑工作について克明な訊問が続いた。訊問の内容、態度から、戦犯容疑の追及が目的でないように察せられた。F工作が成功した原因、事由を掘り下げようとするもののようであった。現地人関係者やINA、IIL首脳との接触経緯や彼等の発言内容、彼等に対する私の人物評等を重視した訊問が多かった。マレイ探偵局或いは総督の植民政策の反省と今後の施策参考資料を狙っていると思われた。かく察した私は、和やかに、誠意をもって素直に応答した。
最後の日、訊問が終わった後、思い入れる口調で「貴官の工作は、真にグローリアス・サクセスであった。敬意を表する。1942年の初めから、英当局は、貴官の工作を重視して、デリーに大規模の対抗機関を特設して、情報収集と対抗施策に活動した。・・・・・
そしてややきびしい口調で、「貴官の詳細な応答は多とするが、なんとしても納得しかねる疑点がある。・・・・
局長は私の答えに満足せず「そんな説明で満足できるものがあると思うか、それでは貴官はどんな特別のテクニックを用いて、この成功を導いたのか。それを説明されよ」と迫った。私はいよいよ返答に窮して「特別のテクニックなどない。私達は素人だ」というと、局長は不機嫌に「それではいよいよ解らん。貴官も自分の言うことが解るだろう。成功の原因について考えて見てくれ」と追い詰められた。
私は、この好意の局長に満足を得る回答を与えたい、局長の言うことも道理だと思うけれども、名答が浮かばない。・・・そして、これより外にないと思い到った所信を、誠意をこめて語った。
「それは、民族の相違と敵味方を超えた純粋な人間愛と誠意、その実践躬行ではなかったかと思う。私は開戦直前に、何の用意もなく準備もなく、貧弱極まる陣容で、この困難な任務に当面した時、全く途方に暮れる思いに苦慮した。そしてハタと気付いたことはこれであった。英国も和蘭も、この植民地域の産業の開発や立派な道路や病院や学校や住居の整備に、私達が目を見張るような業績を挙げている。しかしそれは、自分たちのためのもので、現住民の福祉を考えたものではない。自分達が利用しようとするサルタンや極く一部の特権階級を除く現住民に対しては、寧ろ、故意に無知と貧困のまま放置する政策を用い、圧迫と搾取を容易にしている疑いさえある。ましてや民族本然の自由と独立への悲願に対しては、一片の理解もなく、寧ろこれを抑制し、骨抜きにする圧政が採られている。絶対の優越感を驕って現住民に対する人間愛―愛の思いやりがない。現住民や印度人将兵は、人間、民族本能の悲願―愛情に渇し、自由に飢えている。恰も慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように。私は、私の部下とともに、身をもって、この弱点を衝き、敵味方、民族の相違を超えた愛情と誠意を、硝煙の中で、彼等に実践感得させる以外に、途はないと誓いあった。そして、至誠と信念と愛情と情熱をモットーに実践これを努めたのだ。・・・」と力説した。・・・・
局長は、私の所説を、顔色も変えず、冷静熱心に聴き取ってくれて、大きくうなづいた後「解った。貴官に敬意を表する。自分は、マレイ、印度等に二十数年勤務してきた。しかし、現地人に対して貴官のような愛情を持つことがついにできなかった」としんみり語った。
私は局長の、この立派な態度と人柄に、頭を下げて感謝した。われわれ日本の将校に、この態度をとれる将校が果してあるだろうかと自省した。・・・・
局長は俄かに打ち解けて私に「妻子はどうしているか」、「帰国したら、どんな生業につくか」と尋ねてくれた。・・・・
こんな和やかな問答の後、大佐は、ネビーキャットの煙草二罐を差し出して、私の幸福を祈ると訊問の終わりを告げて立ち上がった。私は局長の高い品性に打たれつつ、刑務所に帰った。
引用終わり