復讐の鬼ワイルド大佐
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
引用開始
シンガポール島の東岸に、施設されているこの刑務所ほど、騎士道と武士道を誇る東西両文明国民が、怨讐をむき出しに応酬した場はないであろう。・・・・
凶悪犯人を護送する物々しさで、私が、この獄門を潜らされた時、三千名を越すわが将兵や軍属が、ABC数個のブロックに区分されて収監されていた。私は洗いざらしの、半そで、半パンツの獄衣、裸足の惨めな姿に変えられた。獄衣の背番号はPCW(戦犯容疑者)六千代であった。
刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な訊問、神の裁きを詐称する前時代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。明日をも計り難い己の運命、くずれ去ったわが陸海軍、破れ果てた焦土の祖国、安否の程も知り難い肉親を思って懊悩していた。
私は幸に、承詔必勤、一億総ざんげ、石をかじり、木の根を喰んでも、占領下の苦痛に堪え抜いて、国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた。(その後、あさましく変貌したが)そして、四億民衆を挙る印度のすさまじい独立抗争やINA将士の剛毅な闘魂を、レッドフォートで見聞してきた。その上、印度を初め東南亜諸民族独立必至の機運と彼等の日本に対する感謝と理解と親近の情を皮膚に感得してきた。・・・・
私は一年有余を、この刑務所とクアラルンプールの刑務所に過ごした。この間、三百名に近い先輩や僚友が、獄門に下り、絞首台に上った。・・・
読者は、山下、パーシバル両将軍降伏談判の寧真を見て頂きたい。そのパーシバル将軍につき添って、通訳を努めている白ルの青年参謀が、ワイルド少佐―終戦時大佐に昇任―である。
大佐は、戦前日本に駐在した経歴がある武官で、日本語を解する俊秀である。降服とともに俘虜の身となり、戦友英豪兵とともに、日本軍に駆り立てられて、映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道の工事に駆使せられ、日本軍に対して骨髄に徹する恨みを抱いた一人であった。その大佐が、この地区の日本軍に対する戦犯追及の立役者になっていたのである。・・・・
大部屋に十名ばかりの面々が、コの字型に席を占めて、到来の私に眼を注いでいた。私は、こりゃ物々しい訊問が始まると思った。無実の罪をかぶせて、断を下す魂膽かとも思った。その時、正面の席に、軍服いかめしい、口髭の英軍大佐が、ぞっとするほどの冷笑を浮かべて私を睨み据えながら「藤原! 俺を覚えているか」と口を切った。私はその途端に、フォード会社での参謀を思い起した。あの時髭がなかったがワイルド少佐だと。「覚えています」ときっぱり答えた。彼は眼と顎で、私を彼の机の前に坐らせた。軍服華やかな彼と、よれよれの半袖、半パンツの獄衣の私は正対した。私は勝敗、有為転変の武運の辛さを噛みしめた。・・・・
応酬に必死の私には、時間の経過もわからなかった。大佐は、左右に目くばせして立ち上がり、部屋を去って行った。昼食休憩とわかった.先ほどの刑事が、私を引っ立てて、ビル裏庭の一隅の留置場にほうり込んで去って行った。
朝から一杯の水も与えられていない私は、暑さと疲労で目がくらみそうになった。彼等は私に、飯も水も与えないつもりなのだろうか。
しゃがみ込んで、空腹と疲労に堪えていると、一人のマレイ人巡査が、辺りに気を配りながら鉄柵に近づいて「メージャー・フジワラか」と叫んだ。私はウンと顎で肯定した。彼の後方に、みすぼらしい服装の女房が立っていた。彼は女房と何事かしめし合わすようにうなづき合った。マレイ人の巡査や刑事は、局内に長屋式の住居を与えられて住んでいた。立ち去った。彼は、暫くの後、大皿に山盛りのカレーライスとうす汚いコップ一杯の水を持って来た。「メージャー、早く食べてくれ。オランポテ(英人)が帰ってこない間」に、と哀願でもするように私を促した。夫婦の顔が、地獄の仏に見えた。夢にまで、腹一杯飯を食って見たいと、あさましい妄念にかられつづけたこの半年である。・・・・
その私の手に、山盛りの飯が載せられた。彼は機関のことを聞き知っていたらしいが、私は彼を見知らないのである。私はおし戴いて、夫婦に感謝の意を表した。私は餓鬼のように、その厚意をむさぼり食った。夫婦はその間、見張っていてくれた。涙が出る程に、その情が有難く嬉しかった。戦争間に育まれた、日本と東南亜両民族のこの心の結合を、英人は知っているだろうか。そうだ、戦犯は、この結合を打ち砕かんために鳴り物入りの宣伝で強行しているのだ。日本人民を、現住民に悪鬼と印象づけるために。・・・・
刑務所への帰途についた。件の刑事の態度は、往路と変わっていた。二人の話から、シンガポール陥落直後、私が同情を寄せた旧知であることが解った。車中で私にたばこをすすめてくれた。空腹と疲労の一服に頭がくらっくらっとなった。更にカンポン(村)の中国人飯屋に車を停めて、焼飯を御馳走してくれた。・・・・
それにしても、言葉も解せない、戦犯容疑の若い将兵が、この様な訊問責めに陥れられ、一方的に作製された英文の陳述書に然るべくサインを強いられ、不当の判決に服したが如何に多かったことか。思うても無念である。
引用終わり
2008年07月24日
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