2008年07月22日

印度独立前夜

英印度海軍乗組員の一斉反乱

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はNHK特別番組「進めデリーへ」よりINA将校を裁く英軍事法廷シーン。この裁判を契機に印度の独立運動は一気に燃え上がった。
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引用開始
 英本国政府は、事態のいよいよ重大な発展を憂慮し、リチャード氏を団長とする下院議員団を印度に派遣して、英帝国の進退に資する現地調査に当たらせた。
 しかし英帝国の面目上、この軍事裁判を直ちに中止することはむつかしかった。単に面目だけでなく、中止は却って勝に乗ずる印度民衆の政治要求を激化する懸念もあった。印度側の目的は独立であって、INA裁判の中止はその闘争戦略だからである。英当局のINA裁判の取扱はいよいよ厄介千万な難題となった。
 オーヒンレック総司令官は、改めて声明を出した。「INA将兵の英皇帝に対する反逆は以後問責しない。拷問、殺人の非人道行為のみについて問責する。その数は少数に止まる」と。これをもって印度民衆の反抗を静め、軍事裁判を、英帝国の面目を最小限つくろいながら、早く打ち切りたいと意図したものと思われた。しかしその期待は、またまた甘かった。英帝国は、更に痛烈な反撃を喰う結果となった。
 二月十一日、第二回軍事裁判の判決が下された。反逆罪を不問に付し、暴行罪だけを取り上げ、被告アブドール・ラシード憲兵少佐に七年の刑を判決した。
 この報に接した印度民衆の憤激は再び爆発した。十二日、先ずカルカッタにおいて、抗議のデモが開始され、全市のゼネストに発展した。警官隊の発砲によって、死者十九名、負傷者二百数名を出し、二十六日に至ってようやく平静に帰した。
 その騒動が収まりかけていた二月二十一日のことである。英帝国印度統治史上、未聞の大不祥事が勃発、英当局の心胆を奪った。すなわち、英海軍の一部である印度海軍乗組員の一斉反乱がそれである。ボンベイ、カラチ、カルカッタ港に凱旋帰投した印度海軍乗組員の印度人将兵が呼応し決起したのである。
 ボンベイにおいては、ゴットフリー提督の旗艦ナバタ号を初め二十隻に上る艦船を反乱軍将兵が押さえてしまった。その上同港基地の兵器庫まで占拠する始末となった。カラチでも、旗艦ヒンドスタン号が、反乱軍に押さえられた。
 何れも占拠艦船の艦砲に砲弾を装填して、もし英当局が武力弾圧に出れば、直ちに全艦砲撃をもって酬ゆると宣言した。これがため、英当局は手も足も出せない羽目となった。


 反乱の動機は、以前から、英本国将兵との処遇の差別に不満を訴え、抗議を反復していた折柄、INA裁判をめぐる印度民族の総決起と英帝国の権威失墜に刺激せられたものと伝えられた。
 翌二十二日、ボンベイ市民はこの反乱を支持して、全市ストライキに入り、すべての交通機関、工場、労働者は同情デモを開始した。全市は麻痺状態に陥り、治安維持は、最早、警官隊の手に負えぬものとなった。二十三日、ついに英国軍の出動を見るに及んで事態は決定的に悪化した。市民のデモも暴動、騒擾と化し、これに海軍乗組員の一部が加わった。全英官公施設、食糧倉庫、英官憲用自動車等が襲撃の目標となって業火を吹いた。これを制圧せんとする軍隊、警官隊との間に、凄惨な激突、交戦が繰り返された。死者二百十名、負傷者千十七名という大惨事となった。新聞に報道される写真は、はげしい市街戦そのままであった。
 英アトリー首相は、事態猶予を許さずと認め、反乱軍武力弾圧の決意を放送し、駆逐艦隊の急派を命じた。一方反乱軍側は、国民会議派の長老パテル翁の調停斡旋ならば、無条件一任して降服に応ずると声明した。ネール、パテル両巨頭が、ボンベイに急行して調停に乗り出し、事態は初めて鎮静に帰した。・・・・
 三月七日は、英軍の日本降服戦勝記念の大行事が、首都デリーで催それる日であった。印度総督ウェーベル大将と西南亜連合軍最高司令官マウントバッテン元帥が、英米連合軍一万五千の精鋭を、デリーの凱旋門通りに閲兵する段取りであった。
 だが、デリーの市民は挙ってこれをボイコットしてしまった。戸毎に弔旗を掲げた。店も、学校も、工場も、映画館も一斉に閉ざしてしまった。鎧戸を固く降ろして。「戦勝記念日反対」のビラが全市の要所に撒かれ、貼りつけられた。INAの英雄――愛国者が裁かれ、国民会議派の反対を無視して多くの印度人将兵を戦争に駆り立て、英帝国のアジア支配確保の具に供したこの戦勝を、印度民族が祝福するいわれがあるものか。寧ろ印度及び印度人のため、最も憎悪すべき戦勝だという次第である。
 観閲行事が始るころ、幾万の市民が抗議のデモ行進に繰り出て、凱旋門通りに向かった。この阻止に必死になる警官隊との間に、はげしい衝突が繰返された。忽ち六名の死者と多数の負傷者を出し、デリーの通りは、不吉な血で染められた。英帝国に対する最も皮肉にして痛烈な抗議となった。
 かくて英政府は、印度支配の終焉を告げる最後の段階に達したことを悟った。三月二十四日、貿易庁長官クリップス卿を団長として、ローレンス印度省国務相、アレキサンダー海軍相から成る英帝国閣僚使節団を印度に派遣し、会議派及び回教徒連盟の指導者と会談し、「印度独立許容やむなし」との結論を持参帰国させた。・・・・・
 昭和二十二年八月十五日、印度独立令により、英帝国から印度民族の手に、統治権の完全譲渡が行われ、遂に、印度民族二百年の悲願、大印度の独立を見たのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
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