ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真は第一回インパール戦没戦友遺骨収集に参加してモイラン村民から熱烈な歓迎を受ける筆者(中央)後方の建物はもとINA情報本部が置かれていた。(昭和27)

引用開始
第一回INA軍事裁判の進展にともなって、印度民衆の反英独立抗争は、業火のように全印度に燃えさかり、激しさを加えた。印度は猛り狂う巨象の形相に変わった。英帝国が印度支配の再強化を狙って始めた軍事裁判であったが、その裁判が逆に、英帝国二百年にわたる印度支配の罪業を裁き、その支配に終止符の引導をわたす形勢に発展した。
反英抗争は、大衆の全国的抗議暴動、議会における糾弾、新聞、集会を動員しての宣伝を背景として、水も漏らさぬ周到巧妙なはげしい法廷闘争によって押し進められた。
信仰と種族、階層と言語、政党政派、軍民一切の相違を超え、四億の印度民族が、その全知全能全精力をふりしぼって、火の玉となって決起進撃するこの図は、史上稀有の光景であった。正に民族の運命をこの一戦に賭けんとする民族の綜合大戦争というべきものである。
大衆の抗議運動は、裁判開始の十一月五日、デリー、カルカッタ、ラホール、マドラス等の主要都市に烽火を挙げた。この日、ネタージ・ボースの生誕地カルカッタでは、十万の大衆が手に手に「INA愛国の英雄を救え」「INAの裁判を即時中止し釈放せよ」「英人は印度から即時去れ」「印度の統治権を印度人に返せ」と檄したプラカードを掲げ、大デモ行進を展開した。随所に、警官隊と衝突、流血の惨事を繰り広げた。マドラスでも多数の死傷者を出す騒ぎとなった。
英国は、未だこの騒然たる情勢の本質と帰趨を見抜くことが出来なかったのか。翌六日に「目下監禁中のINA将士の中から首謀者四百名を、向こう六カ月間に裁判に付す予定である」と、強気の発表を行った。この発表が、ますます印度民衆の怒りをあおった。大衆の抗議デモはいよいよ激化してゼネスト、暴動に発展して行った。・・・・
デリーのデモは、特別警戒地帯に指定され、警戒最も厳重な、このレッドフォートに殺到した。天空を画する城壁の外側に、喊声が、押し寄せる高潮のように、どよめき迫ってきた。何万の民衆の怒りをこめて。城内に拘禁されているINA将士も、私達も、固唾を呑んで、その成り行きに全神経を尖らせる。喊声が一段と高まり、近づいたと思う途端、ダダッ、ダダッ、と連発の銃声が城壁にこだました。血を見て群衆の怒りが爆発したのか、喊声はウォーと怒号のはげしさに変わった。息詰まる緊張が城内を圧する。
私達のキャンプのボーイが興奮に顔をこわばらせながら、城門の外に、走って行った。間もなくボーイが息せき切って帰ってくる。「死者何名、負傷者何十名、郵便局が焼かれた。警察署が燃えている。英軍の自動車が放火されている」と私達に耳打ちする。そして再び飛び出して行く。まるでわれわれの忠実な斥候のようである。
こうして、はげしいデモは日暮れまで繰り返された。翌日の新聞に、ネール首相の説得で、漸くデモは中止され、百数十名の死傷者を出したことが、憤りをこめて、一面に報道された。
議会では、国民会議派の領袖が、連日、交々、INA裁判の不当、大衆デモに対する武力弾圧の不当を糾弾する。その糾弾は、日本に対する戦争裁判の論難にまで発展した。曰く、広島、長崎に原爆を投下して、何十万の非戦闘国民を殺戮したトルーマンこそ真の戦犯だ。曰く、赤十字の標識も鮮やかな病院船阿波丸を撃沈した米海軍こそ戦犯に問わるべきだ。曰く、既に降服し、武装を解いた在インドネシア、ヴェトナムの日本軍に再武装を強制して、インドネシアやヴェトナム民族の英蘭(仏)軍に対する独立戦争の弾圧を強要している英、蘭、仏こそ正に戦争法規の違反者だ。その英、米、蘭、仏に戦争裁判の資格はないと云ったぐあいに非難する。・・・・
このような情勢下、十二月末、第一回軍事裁判は最終段階を迎えた。検察側は、被告の英皇帝に対する反逆の重罪とINA将兵に対する殺人或いは拷問の責を追求し、その立証に躍起となった。弁護士団と被告は、その不当と事実無根を反論した。「自由印度仮政府は、日本、独逸、満洲国、南京政府、泰国、ビルマ、比国等から承認された合法政府である」「被告はシンガポール陥落直後、ファラパークで、英軍の手から日本軍に接収された時、英皇帝に対する忠誠の義務を解かれ、彼等の自主自由の意志に基づきINAに参加し、合法政府軍の正規将校として、その祖国印度解放の聖戦に従ったのだ。合法自由印度仮政府が、正しい国際法の手続きにより、英帝国に堂々と宣戦を布告した戦争だ」「INAの祖国進撃は、英本国の支配と搾取に抗して独立戦争に決起したところのアメリカ独立戦争に比すべきものである」・・・・
「INAは独立国政府の軍隊として、日本軍と協同作戦を行ったもので、決して傀儡ではない。今次大戦間、英軍の一部が、アイゼンハワー元帥の指揮下に入って対独戦を遂行したが、英軍が米軍の傀儡ではない事実と同様である」「交戦権を持つ独立政府に属する正規将校を、他国・・英国政府の軍事裁判に付すのは、全く不当不法である」と反論折伏した。
かくて最後に、首席弁護士デサイ博士は、二日間にわたって八時間に及ぶ大弁論を展開して止めを刺した。
「隷属民族は闘う権利あり」と論断した。
思えば、市ヶ谷台上、連合軍極東裁判の法廷において、印度のパール判事が、唯独り、敢然として日本側A級裁判の不当、無罪を主張したのと、デリー軍事法廷における弁護士団の主張及び印度国会における糾弾に表明された思想は共通するものである。これは正しく印度の良心というべきものであろうか。
引用終わり