ヴァイニング夫人は、当時の様々な人物との交流をもその著書に著しています。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。
引用開始
※小泉信三氏の紹介する天皇陛下についての話
1950年の一月のある日、当時すでに一年近く皇太子の教育参与をつとめられた小泉信三博士は陛下について今まで聞いたことのなかった非常に感銘深い話を聞かせてくれた。
「陛下を知れば知るほど、ますます尊敬するようになりました。最初は陛下は善人でいらっしゃると思った。しかし、今では陛下が賢明なお方であることもますます分かってきました。陛下について田島さんがうまいことを言っていました。陛下は剣術にはまったく向いていらっしゃらないが、真剣勝負となると強いお方だ、と。陛下は外見的には目立つお方ではいらっしゃらないし神経質そうに首をふられるが、ご立派なお方ですよ。」
※鈴木貫太郎氏の語る終戦の決断について
天皇が1945年の夏に終戦をご決断された経緯についてはよく語られている。わたしが聞いた話もそれと同じであった。ただ違っているとすれば、天皇がご決断を下されたとき側近の立場にいたいく人かの人物を個人的に知っているということであろう。
その人物とは元男爵、海軍大将、侍従長、首相をつとめられた鈴木貫太郎氏である。
1947年の九月のある日、しわの刻まれた白髪の七十八歳になる氏は、当時住まいとしていた千葉の陋屋で、終戦の経緯を話してくれた。氏によれば、1945の春に、天皇が戦争の終結を望んでおられたことを陛下の口から直接聞いたそうである。陛下はそのとき、陸軍がいくつかの新しい案をもっていたが、陸軍案は功を奏さなかった、とご発言され、日本側と連合国側の戦死者を悼まれた。
鈴木氏は首相に指名された五月から降伏するまでの間のことや、天皇が口にされた、一日も早く平和をという願いを実行できなかった理由などについては何も話されなかったが、八月十四日の最終的なご決断の模様について詳しく話された。
その日の朝、最高戦争指導会議の緊急御前会議が開かれた。天皇・皇后両陛下がその頃お住まいとされていた小さなコンクリートづくりの図書館、すなわち御文庫の下の防空壕の中においてである。
最高戦争指導会議は陛下のご裁可を得るために一致した結論には至らなかった。意見は分かれ、降伏に賛成だったのは三人で、断固反対だったのも三人であった。陛下が彼らの議論を聞かれた上で、ご自身で最終的決断を下されるべきである、というのは鈴木首相の発案だった。
阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、それに豊田海軍大将は、国家の玉砕に終わっても最後まで戦い抜くべきだと主張した。米内海相、東郷外相、それに鈴木首相自身は降伏に賛成した。
玉砕派がこだわったのは降伏後の陛下のお立場だった。連合国は八月十日に「降伏の時点から、国家を支配している天皇もしくは上記日本国政府の権限は連合国側の最高司令官にしたがう。・・・日本国の究極の政体は日本国民の自由に表明する意志により決定される」と通告していたからである。
これらの条件の中では、天皇が退位させられ、戦争犯罪人として裁かれ、天皇制そのものが廃される、という可能性はあまりにも明らかだった。ところがこの指導会議で天皇ご自身が、それらの条件を「受諾してよろしい」と躊躇されることなく発言された。そのご決定は最終的なものとなり、臨席していた者たちの中には涙する者もいた。
・・・略・・・
詔勅は八月十五日の正午に放送された。・・・・
連合国側は数千の兵士で二百万の日本人兵士の武装を無血解除できたが、それはこの詔勅と日本国民の天皇への忠誠の習慣のおかげである。ここに合衆国は日本の天皇に感謝すべき理由がある。
※天皇陛下との最初の拝謁
陛下に最初に拝謁したのは1946年10月17日で、日本に着いて四十八時間もたっていなかった。拝謁では天皇、皇后、それに皇太子のお三方がご一緒であったが、そのような先例はなかった。
お三方は手を差し出されて握手を求められた。それからわたしたちは同じ高さの椅子にすわって、約四十分ほど、勿論通訳官を交えてであったが、うちとけた雰囲気の中で話をした。
縞ズボンとモーニング・コートをお召しになった天皇陛下はほっそりとした中背のお方とお見受けした。眼鏡をかけておられ、お声は少し甲高く、例の「あ、そうですか」を口にされた。穏やかで、ご親切で、わたしの住まいのことを気遣われた。また総司令部が日本国民に放出した食料のことでアメリカ人であるわたしに礼を言われた。
※天皇陛下の思召し
以後陛下とお会いしたときの会話は、たいていの場合、似たようなものであった。陛下は、元気でやっているかとか、不自由していないかときまってお尋ねになられた。
私が軽井沢に滞在中、危険を感じるようなことが二度ほどあった。それは浅間山が十七年ぶりに大爆発して数名の死者が出たときと、甚大な被害を出したキティ台風が荒れ狂ったときだった。 陛下はその都度侍従を通して電話でわたしの安否を気遣ってくださった。とくに浅間の爆発のときには、陛下ご自身が東京を離れて東北地方をご巡幸しておられたのでその思召しには感銘を受けた。
※天皇家の団欒
こうした機会のほとんどの場合、天皇のお子さま方一部または全員がお揃いで、談笑に加われた。お子さま方が幼なかったときには、夕食後の一時にゲームをして遊ぶことがあった。そのようなときの陛下はたいていお入りにならず、お小さかった貴子内親王が目隠しされ、欧米の子供たちがロバにしっぽをつけて遊ぶように、福じんさまに口や鼻をおつけになるのをニコニコしながら見ておいでであった。
両陛下が、一番下の二人のお子さまにせがまれて「スナップ」のゲームにお揃いで打ち興じられたことも二度ほどあった。
引用終わり。
この本では、皇室のご家庭内に入っておられたヴァイニング夫人ならではの記録が見られて、詠んでいても楽しい部分が色々あります。
2006年11月09日
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