ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はマレーのIIL支部に別れの挨拶訪問をした筆者を囲んでの記念写真(昭和17年4月)

引用開始
八月十五日、私は、終戦の大詔を福岡衛戊病院の病床で排承した。インパールで罹ったマラリアの発作で入院していたのである。
将兵、看護婦の慟哭が病院を覆った。その中で、私は終日、終夜、国の行末と身の進退を案じつづけて苦悩した。又マレイ、スマトラ、ビルマに展開したF工作とINAとともに戦ったインパールの死闘の思い出が、亡き盟友、戦友の面影が走馬灯のように私の脳裏をかけめぐった。そしてF機関のメンバーや、現地の戦友や、F機関に協力してくれた何十万現住民の身の上に降りかかるであろう難儀を、あれこれと思い煩った。私は、その責を負わねばならぬと心中に誓った。英蘭当局が、不倶戴天の敵として、真先に私を重要戦犯に指定し、復讐を果たすだろうと予想した。
私は中野婦長に乞うて、青酸カリを入手し、内ポケットに深く蔵いこんだ。逮捕の使いに接した時、機を失せず毒をあおぐべく。この覚悟と用意が整うと、私の心はいくらか安らいだ。第五七軍高級参謀として敗戦の処理に、心置きなく従えた。
十月も半ば、私はGHQを介して予想外の召喚状に接した。英マウントバッテン元帥の西南亜連合軍司令部から。それは予期していた戦犯の召喚ではなかった。INA将兵を裁くデリーの英軍軍事法廷の証人としての召喚であった。しかも、被告盟友に対する印度側弁護士団の要請に基づくものであった。・・・・
私は、召喚状を手に、進退を熟慮した結果、断乎これに応ずる決意を固めた。INA盟友のため、わが祖国とF機関全員のため、更に日印両民族将来のために、証言することが私の責任であると考え及んだからである。
私は、わが印度工作は、単なる謀略ではない、陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく、身をもって実践したものであることを強調しなければならぬと思った。又IILやINAの盟友は、最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた。
かく思い定めつつも、私の心の一隅に、一抹の不安が動いた。それは、敗戦の今日、盟友の一部から変節の誣言を受けるかも知れない。非暴力不服従運動を信条とし、外国の援助を忌避することを建て前としてきた印度国民会議派の主流(ガンヂー、ネールを領袖とする正統派)やその影響下にある印度の民衆から、INAを武力闘争に駆った指弾を受けるかも知れない。更に証言終了後、英軍の戦犯として処断されるだろう.俘虜を懐柔逆用し、英帝国への反逆に駆り立てた戦時俘虜取扱いの違反者と銘打って。等々の懸念がともすると私の決意を鈍らせそうになった。なおこの工作の過程に見られた紛糾混迷の事由を追及せられ、心なくも、私が身を奉じた国軍や上司に累を及ぼさんことも計り難い、といった悩みが、一層私を迷わせた。
私は出発の前夜、懐中深くしのばせていた青酸カリを便所にたたきこんで、自らの決意を促し固めた。
この間、私の最もわびしく思ったことは、次のことであった。
そもこの工作は、軍は勿論、国を挙げて展開された工作である。汪精衛工作に匹敵する大工作であった筈である。しかるに終戦、戦犯追及がささやかれるようになると、分けて私がこの度の召喚に接してからは、軍中央関係者の誰一人として、国のために進んでその責を負い、わが国の本工作に対する所信を明らかにしようとする人士が見られなかったことである。
のみならず、この工作は一少佐の藤原がやった仕事だと言わんばかりに、かかわりを回避するかの冷たい風さえ看取された。後述の印度側のチームワークのとれた毅然たるそれと、思い較べて感なきを得ない。
われわれ一行は、GHQの軍用機に搭乗して、立川飛行場を後にした。再び相見ゆること期し難い敗戦の祖国と妻子を残して。・・・・
十一月十八日、デリーの空港に着いた。・・・・夕闇迫る中を、私達一行は、英軍将校の厳重な護送下にオールドデリーのレッドフォート(ムガール王朝の王城、英支配時代の英印軍の牙城)に送りこまれた。
このレッドフォートこそ、印度民族の隆盛を誇ったムガール王朝の華やかな歴史と大英帝国二百年の侵略と支配にさいなまれた印度民族の悲史の表徴である。・・・・・
この度の英軍事法廷は、この城内に開廷されていたのである。この城内には、英印軍司令部、軍刑務所、軍事法廷など、大英帝国の印度支配に必要な軍事権力七つ道具が揃っているのである。・・・
私達は、城壁の内側に沿う一角に、鉄条網を張りめぐらした幕舎のキャンプに収容された。そこに、私達を呼ぶ日本人の声を聞いて驚きと安堵とを覚えた。光機関長磯田中将、光機関参謀香川大佐と高木中佐、自由印度仮政府在勤大使蜂谷氏が先着していたのである。
私は挨拶もそこそこに、高木中佐と香川大佐に、軍事裁判を尋ねた。二人の息を弾ませての、勢いこんだ話に、私の胸にわだかまり続けていた不安は、一ぺんに吹っ飛んだ。意を決し、召喚に応じてよかったと心安らいだ。
その語るところは、「すさまじいものだ。全印度は鼎の沸騰する総起ちの騒ぎだ。INA裁判の即時中止、釈放、印度統治権の返還、英人の引き揚げを要求しているんだ。INAは印度の愛国者だ。英雄だ。INAは日本の傀儡ではない。INAが日本を利用したのだと主張しているんだ。国民会議派有数の領袖を網羅した大弁護士団を編成して、一挙印度の独立獲得を期して闘っているのだ。・・・
INAと印度国民が、形を変えたイムパール作戦、「チェロ、デリー」「チェロ・デリー」の戦いに総決起しているのだ。大東亜戦争は、日本の敗戦の一幕では終わっていないのだ。まだ続いているのだとさとった。
引用終わり