2006年11月08日

ヴァイニング夫人1

昭和二十一年の十月に来日し、それから四年間にわたって皇太子(現天皇)の英語教師をつとめたヴァイニング夫人は、単に英語の教師であることにとどまらず、さまざまな影響を皇太子、及び当時の日本人に与えられた方です。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。
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引用開始
※ わたしの授業
 最初の二年間は、週に三回、東京の郊外にある小金井まで車で四十分ほどかけて通い、皇太子殿下の個人教授と殿下のクラスの授業を行った。戦禍に崩れ落ちた市街を通り抜けると,光景が一新されて旧道の青梅街道に入り、街道沿いには藁葺屋根の農家や、大木で半分隠されたようになった寺社があったり、村があったりした。村の人家は表が開け放されており、冬の陽だまりの縁側に座って針をさしている年寄りをよく見かけた。

 一方、小金井とは反対方向の、使われなくなった陸軍の兵舎(バラック)にも通った。そこは戦争前の瀟洒な建物をすっかり壊された女子学習院の校舎として使われていた。そこでは皇太子殿下の姉君たちが入っておられる高校の二クラスを担当した。

 生徒たちは男の子も女の子もみなみすぼらしい身なりをしていた。彼らは濃紺の薄手のサージの制服を着ていたが、擦り切れていたり、つぎ当てをしたものだった。上の子のおさがりだったり、古着屋で買ったものだったので、体にあっているのはまれだったが、ボタンだけはどれもしっかりと縫いつけられていた。靴もはき古して破れていたりした。
 学校には火の気がまったくなく、薄手の制服の下に着ているセーターもたいして役には立たず、そのため生徒たちは寒さにうち震えていた。雨水がしみ込んでそのまま凍ってしまった部屋の隅には氷がはりついていたが、わたしはそんな部屋で教えることがたびたびであった。
 生徒たちは疲れていた。通学するのに、大半の生徒は家を六時半に出て、満員の電車やバスに乗らねばならなかったからである。彼らはやせ細って顔色も悪く、みるからにひもじそうだった。・・・・・

 わたしはこんな少年や少女たちの所に、食事もきちんと取り、暖かい格好をして、暖房のある家から車に乗って行くのであった。しかも、そのわたしはと言えば、負け戦を一度たりとも知らず、占領されたこともなかった日本に敗北と軍事的占領をもたらした国からやって来た人間なのである。しかし、生徒たちはそんなことには少しもかまわず、熱心に耳を傾け、よく勉強し、礼儀正しく、人なつっこかった。・・・

※皇太子殿下にはじめて会う
 皇太子殿下に初めてお目にかかったのは、日本に着いて二日目のことで、両陛下との拝謁の折りだった。殿下はあと二ヶ月で十三歳になられるところであった。
 丸顔で、生真面目に見えたがユーモアがあり、率直で正直、親しみのもてる少年だった。恥ずかしがり屋さんに見えたが、もって生まれた落ち着きと気品があり、賢そうで、すべての義務には男らしく公正に応じられるようだった。・・・・

 殿下は物心がついた頃から、自分が世の中で重要な役を担っていることを意識させられてきたお子さまであり、そのための準備をくる日もくる日も、くる時間もくる時間もされねばならなかった。
 三歳にしてご両親陛下のもとから離され、ご自分の住まいで、三十歳から四十五歳までの年配の、生真面目で忠実そのものの侍従たちに取り囲まれて育てられ、その侍従といえば、どこに行くにもついてまわり、間違いなどゆめ犯さないようにとの気遣いから、どんなときでも手とり足とりした。・・・・・

※天皇陛下との拝謁の機会について
 日本での体験でわたしがもっとも関心をもち、またもっとも報いられたことは、天皇陛下を存じ上げる機会が与えられたことである。
 思うに、いかなる外国人もわたしが陛下のことを存じ上げているほどには歴代の百二十四人の天皇のどの方をも知り得た人は、他に一人もなかったと思われる。
 1957年と1959年の訪日をも含めて、わたしは午餐や、お茶、晩餐の折に陛下の右に座る光栄に浴したのは、数えて見ると、十六回に及んだ。他にも陛下とは皇太子のご教育の件で、二度ほど皇后陛下を交えて長時間にわたってご相談申し上げたことがあるが、それは日本側にとっても先例のない事であった。
 陛下とご一緒に雨の降る中を那須で森や野生の花が咲く中を、あるいは皇居内の吹上御苑の樹木のおい茂った庭を歩いたりしたこともある。また陛下の生物学御研究所ではお話し申し上げたこともあった。
 
 いかにも陛下らしい、わたしにとっても非常に興味深いご日常や行事で陛下のお姿を拝見したこともよくある。たとえば、那須でお二人の皇子方と白馬に乗っておられるときのお姿、葉山での貝の採集を終えてお帰りのごようす、新憲法の下で召集された最初の国会の開院式でお言葉を賜る陛下、毎年一月に皇居で行われる新年の歌会始の儀を主宰されるときの、あるいは皇子が中等科を、内親王のお一人が高等科をご卒業された折の学習院での卒業式にご臨席された陛下のお姿などであった。わたしは陛下からはお言葉を賜ったり、おやさしい思召しをいただいたりもした。
・・・略・・・

 皇太子殿下のためにアメリカから教師を連れてくることは陛下のご発案だったので、わたしは陛下のご庇護のもとに多少は置かれていた。そればかりか、日本国政府に雇われ総司令部とは何の関係もなかったとはいえ、占領国の国民であり、通常の外交関係がなかったその時期のささやかな民間大使であったことも事実である。
 
 これらの要素のすべてが、あの稀で偶然的な巡りあわせの中で働いていて、陛下とのご親交を可能にしたが、これは本当に異常なことであると同時に喜ぶべきことであった。
 こうして陛下とは何度もお目にかかったが、さらに、いろいろな意味で陛下のお近くに仕え、陛下ご自身のこと、また陛下の過去何年かの歴史的なお立場などについて語って聞かせてくれた日本人の人たちをも知った。
引用終わり。

 前から欲しいと思っていたヴァイニング夫人の著書を買いました。皇太子殿下(現天皇)の少年時代からご成婚のことなど、単なる家庭教師という仕事を超えてのご親交の様子が窺えます。
posted by 小楠 at 08:03| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
この記事へのコメント
自分の立場を充分にわきまえていて、たいへん、好感が持てる文章ですね。
つづきが楽しみです。
Posted by おしょう at 2006年11月08日 17:44
おしょう様
>>好感が持てる文章ですね。

ヴァイニング夫人は総司令部とは関係なく来日されたので、GHQのニューディーラーたちの影響もほとんど感じられない点も好感につながっているのかも知れませんね。
Posted by 小楠 at 2006年11月09日 07:48
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