インドネシア対オランダ軍
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。
昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
Fメンバーたるサイドアブバカル君など二十名の同志がスマトラに帰ってから、その宣伝はプサ団の共鳴を得て、文字通り燎原の火のごとく全アチェに拡大した。オランダの圧迫とその重要公共施設の破壊準備の進捗に伴って、アチェ民族のオランダに対する反抗気運は頂点に達した。プサ団の使節が日本軍との連絡に成功したとのピナン放送は、シンガポール陥落の東京放送と相まって、いよいよアチェ民族を勇気づけた。
反乱は二月二十三日夜、スリモム町においてトンクアブドル、ウハブ指揮の下に、オランダ、コントロレユールの郵便局襲撃をもって開始された。そのころ既に、この町の兵営にあったインドネシア人のオランダ兵は、Fメンバーの一翼となっていた。その翌朝、反乱はオランダ軍の橋梁破壊阻止の暴動に発展した。すなわち、Fメンバーはオランダ軍がラム、ルポンよりラムバクにわたるクミル橋梁始め、二十個所の橋梁に装置したダイナマイトを除去せんとして決起したのである。この決起指令は既に二十一日発令せられ行動を開始していた。F字の腕章を付した三十名の武装決起隊がこれに参加し、見事にその取除きに成功した上、随所に隘路を遮断し、電話線を切断し、インドラプリの鉄道を破壊してその確保に当った。・・・
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このアチェの反乱気運に対抗して、コタラジャ地区のオランダ軍が増強された。
これに対して三月四日、ルボーにおいてアチェ各地の代表者会議を開催し、全アチェ一斉に統一ある反乱を起すことを決議した。・・・
三月六日、この決議は全域に檄された。更にオランダ政府官吏たるインドネシア人に対しては、即時辞職罷業せざればオランダ人と見做す旨警告が発せられた。これらの檄は政府にも警察署にも送付され、街頭は勿論、オランダ軍の装甲車にまで貼布された。三月七日には先ず各都市の自警団が罷業に入り、続々逃亡してFメンバーに加わった。オランダ軍が破壊を企図すべきすべての橋梁、製油所、貯油所、交通施設等一切の公共施設にFメンバーが配置され、ダイナマイトは片端から除かれた。三月七日、トク、ニヤ、アリフ氏はオランダ理事官に対して「アチェの政治をアチェ人に正式に返還すべし。しからざればアチェ人はオランダ人に宣戦すべし」との通告を発した。このころからアチェ各地の電話線は切断され、倒木による道路遮断が至る所で行われた。この不穏な形勢に対処しコタラジャ近傍のオランダ軍と官吏は兵営に集結した。
三月十一日夜を期し、全アチェの反乱蜂起を統一する企図が策された。オランダ軍の先制攻撃に備え、すべての部落を防塞で固め、襲撃の準備を進めた。コタラジャ付近では、十一日夜十一時ごろ、まずラムニヨン橋梁においてオランダ軍との戦闘が始まりこれを撃退した。三月十二日午前二時ごろ、ロンガでは、オランダ軍が飛行場の貯油槽に放火したのをきっかけとして、オランダ軍の飛行場破壊を阻止せんとするF機関との間に戦闘が起った。午前四時には数千のFメンバーが歓声をあげてコタラジャ市内に殺到し、官庁を襲い、更にクラトン兵営を襲撃し激戦を展開した。
この激戦の大混乱の最中、午前七時に日本軍がコタラジャに入城し、全アチェ人の万歳歓呼を受ける劇的光景を呈した。・・・・
タバトアン郡では、サイドアブバカル君の司令に基づいて、プランピティエ氏指導のもとに、全郡民集結し、ガフイなる団体を結成し反乱を準備した。ガフイとはガフチュアン、フチエヤマ、インドネシア(インドネシア富士山同盟)の頭文字GFIより名づけたものである。
サイドアブバカル君が当地に来て指令を与えた際、Fとは藤原機関のFであることを説明し忘れたために、人々は富士山のFであろうと思い込んで、この名を用いたのである。ガフイの会長にはトクラシット氏が就任した。・・・・
三月十五日、オランダ軍が重要資源や公共施設を破壊するとの報を得るや、全郡一斉に決起した。プランディェのオランダ軍兵営の攻撃から始まった。数十台の自動車でオランダ軍が来攻し、凄惨な戦闘となった。ガフイメンバーの死者は三十数名に及んだ。三月十七日にはアパーアンのオランダ軍兵営を襲撃し、三月十八、十九日各地に反乱が拡大した。この地区の戦闘でアチェ側の犠牲は死者百名以上、負傷者十名を出した。この郡民の敢闘によってタバトアンの町は火災を免れ、油槽も、商社も、兵営も、無事確保され、のちに進駐して来た日本軍に手交された。
このようにして、サイドアブバカル君を始め、同志アチェ民族の抗争によって、オランダ軍の防衛陣は破滅に瀕していたとき、日本軍近衛師団はブルラ、クロン・ラヤ・ドルエン、サバンの三区に上陸を開始したのであった。増淵氏が二十四名の同志と共に上陸して来た。
オランダ軍の大半は、既に山岳地帯に退却しつつあった。早くも日本軍の輸送船団を認めて沿岸住民の喜びが全スマトラに伝わった。沿岸住民は、かねての司令に基づいて清水、果実、飲食、鶏肉を携え海岸に群がって日章旗を打ち振って歓呼した。全アチェの各村落、都市はF指導者の指令に基づいて糧食を積み、清水、果実を蓄えて皇軍の歓迎に備えた。自転車、自動車は随時日本軍の需要に応ぜられるように収集された。道路は清掃せられ橋梁は確保警備せられた。重要資源は完全に保護されて日本軍に手渡す準備が整えられた。
鉄道、電話は日本軍の進撃の用を待つべく修復を急がれた。十数万のFメンバーは、八方に飛んでオランダ軍の遺棄兵器を収集し、敗残兵の逮捕に活動を始めた。敗走するオランダ軍の情報は手に取るように明らかに日本軍に報告された。このFメンバーの活躍によって、日本軍上陸開始後三日にしてアチェは平静に帰し秩序を回復した。
引用終わり
2008年07月07日
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