渡部毅著「愛国心の教科書」から、明治時代の憂国の女性のことをご紹介してみます。教科書や世間で言われるイメージとは違う姿も見えてくるかも知れません。
引用開始
※息子を『猛く戦へ』と激励した与謝野晶子
晶子は弟に対して詠った「君死にたまふことなかれ」の詩によって、明治を代表する女流反戦詩人のようにとらえられていますが、実際は晶子の生家が弟の死によって断絶することを憂えたために、「君死にたまふことなかれ」と詠んだのが真相だったようです。
というのも、晶子は日露戦争以後の戦争において、厭戦気分を詠ったような詩歌は一つも残していないからです。それよりも晶子に特徴的なのは、彼女の尊王心です。
たとえば、明治四十三年(1910)、幸徳秋水らによる大逆事件が起こるや、晶子は、「天皇は現人神であることを為政者たちは国民に徹底せよ」といって、次のような歌を詠んでいます。
「かしこしや 君としいます 今の世に 臣と褒むべき 臣の乏しさ」
「臣達に ねぢけむ人等も まじれども わが大君は 神にしましけり」
晶子の尊王心は、彼女が、「堺の街にて亡き父ほど、天子様を思ひ、御上の御用に自分を忘れし商家のあるじは無かりしに候」といっているように、父親の影響を大きく受けており、それについても誇らしげに、
「おほぎみは 猶も尊し 上方に 育ちし我の 習いなるかも」
と歌に詠んでいます。そして、父から影響された尊王心を、「天長節」(天皇誕生日)の日にわが子にも教えたとして、
「大君の めでたき御代を 教ふれば 幼き臣の わが子等も泣く」
というように、わが子も天皇の御代のありがたさに感涙したと詠んでいます。
そして、パリで、明治天皇が崩御されたことを知るや、次男の秀に、
「かあさんは、こんにち、天皇陛下のおかくれになった日の新聞を読んで、なきたい気持ちで、一日をおくりました」と手紙を書き送り、十八首もの追悼の歌を、『東京朝日新聞』に寄せています。
晶子はヨーロッパ旅行から帰国(大正元年)してから、
「私は近年欧州へ旅行するまでは、日本という世界の片隅にいて世界にあこがれている一人の浮浪者であった。日本よりも世界の方がより多くなつかしかった。然るに欧州の旅行中、至る処で私一人が日本の女性を代表しているような待遇を受けるに及んで、もっとも謙虚な意味で私は世界の広場にいる一人の日本の女であることをしみじみと嬉しく思った。私の心は世界から日本へ帰って来た。私は世界に国する中で私自身にとってもっとも日本の愛すべきことを知った」
といって、自身の国家観の変容を表白しています。
広い世界に出て、自分は世界人だという空虚な考え方を反省し、日本人としての与謝野晶子を自覚したのでしょう。
・・・略・・・
その後、大東亜戦争で海軍大尉として息子・帖覆い・・傭法砲・仞・靴討い・箸�C砲癲⊆,里茲Δ焚里魃咾鵑任い泙后」
「水軍の 大尉となりて わが四郎 み戦に往く 猛く戦へ」
このように、晶子の生涯は社会化教科書で見られるような反戦家の道ではなく、日本人としての自覚を持ち、勇猛な生き方を尊ぶ人生をたくましく歩んだ道だったのです。
※樋口一葉の憂国日記
明治二十六年(1893)十二月二日には、
「夜中に目を閉じて静かに今の世の中の有様を思うと、ああこれからどのようになっていくのだろうか。とるにたりない女が大そうなことを思っていても、それは蟻やミミズが天下のことを論ずるようなもので、己を知らないこと甚だしいといわれそうだが、それでも同じ天の下に住んでいる者なら、風雨雷電は誰の身にも降りかかってこよう。
国の一隅に生まれ、一隅に育って天皇陛下の恩恵に浴するのは、政治家や軍人に少しも劣るものではない。日々脅威が迫りくるわが国の有様を、川を隔てて火を見るように安閑として座視しておれようか」
「世界においては、鋭い鷲の爪のごとき、獅子の牙のごとき欧米列強の脅威がある。インドやエジプトがそれらの爪や牙によって侵略を受け、植民地にされたという前例を聞いても、身体魂が震えるが、たとえ物好きな者よと人々からいわれても、この時代に生まれた者として、何もせずに一生を終えるということはしたくないものだ。なすべき道を実行するのみ」
翌二十七年四月には、
「道徳は廃れて人情は紙のように薄くなり、官民ともに私利を追求して国是の道を講ずる者はなく、わが国はどのようになっていくのだろうか。役に立たない女が何事かを考えたとしても、それはかなわないだろうとは知っているが、私は一時の安楽を貪って、将来にわたり憂慮されることを考えない者ではない。
わずかばかりでも、人としての心を備えた者が、わが身一代の情熱をすべてこれに注ぎこみ、死生を厭わず、天地の法にしたがって働こうとするとき、立派な人もそうでない人も、男も女も、何の区別があろうか。笑う者は、笑え。悪口を言う者は、言え。
私の心は、すでに天地と一体になっている。私の志は、国家の大本にある。私の屍が野外に捨てられ、やせ犬の餌食になってもよい。努めても褒賞を求めず、苦労しても報いを望まなければ、私の心は前後左右広々としている」
と一国民として日本国の現状を憂え、国家のためにできることをやっていきたいという気持ちを切々と書きとめています。
当時の国際社会の中で、日本は不平等条約の改正やロシアの外圧など、難しい問題を多数抱えていました。数カ月後には日清戦争が起こっていますから、一葉がいっている「日々脅威が迫りくるわが国の有様」というのは、こうした難しい国際情勢をさしています。
このとき、一葉は二十一歳、彼女は単なる文学少女ではありませんでした。一葉も、国家の現状、行く末を真剣に憂慮し、たとえその屍が野外に捨てられようとも国家に尽くそうとする烈々とした心意気を持ち、その志を「国家の大本」におく女性だったのです。
引用終わり。
時代の違いはあれ、現在の世情と比べると、世界を見る目、日本を見る目に大きな違いがあるようです。当時は日本国民がこのように真剣に国というものを考えていたからこそ、列強の植民地にならずにすんだのでしょう。
2006年11月07日
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すみません、このコメント見逃していました。
>>与謝野晶子も戦争を嫌う詩
やはりそうですか、本人が見たら怒るでしょうね。
それにしても左翼のやることは嘘が多い。