ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は山王会談に先立って行われたIIL指導者会議のメンバー。中央の筆者より向って左へプリタムシン氏、モハンシン将軍、メノン氏、同じく右へギル中佐、ゴーホー氏。

引用開始
プ氏は新段階に対処するためにマレイ、シンガポールのIIL支部長会議をシンガポールに招請し、モ大尉はシンガポールにINAの全兵力を集結して、INAの強化拡充について日夜奔走しつつあるとき、東京の大本営から南方軍総司令部を経て一通の電報が私のもとに着いた。その内容は日本大本営の肝入りで、東京にあるラース・ビハリー・ボース氏(新宿中村屋の主人相馬氏の女婿)が、東亜各地の印度人代表を招請して祖国印度の解放に関する政治問題の懇談を遂げ、かたがた日本側との親善を計るため、マレイ、泰方面のIIL、ILA代表約十名を三月十九日までに東京に到着するように、招請されたものであった。なお、この電文には私が一行に同行すべきことと、岩畔大佐の上京とを要求されていた。・・・・
三月十日、親善使節の一行と私はカランの飛行場を出発して東京への飛行の途についた。大田黒君が私に随行した。・・・・
飛行機の都合によって、私達の一行は二組に分かれなければならなかった。岩畔大佐と私とモハンシン大尉、ギル中佐、ラバガン氏、ゴーホー氏、メノン氏の七名が一組となって東京に直行することとなった。大田黒氏、スワイミ氏、プリタムシン氏、アイヤル氏、アグナム大尉が一組となって別の飛行機で二日遅れてサイゴンを出発することとなった。三月十一日、私達一行はサイゴンを出発したが、私達の飛行機は海南島の飛行場でエンジンに故障を起したために二日間も滞在を余儀なくされた。・・・・
私達の飛行機は台北、上海で各一泊のうえ東京羽田飛行場に着いた。・・・
そして私達の搭乗機はスワミイ氏一行を迎えるために直ちに台北に引き返して行った。飛行場から大本営の案内で一行は山王ホテルに落着いた。上海からオスマン氏が、また香港からカン氏が使節として着京していた。三月も半ばの東京は南方の客達には極寒の思いであった。なかんづく一行の長老メノン氏は栄螺のように身体を縮ませて震えていた。東京における一行の案内や行事は私の手から離れて、大本営当事者の手に移った。誓いを共にし、生死を分ってきた友に、桜咲く祖国の風物を心行くまで、私が自ら案内することを楽しんでいた折柄、掌中の玉を奪われたような空虚な思いが私を襲った。
三月十九日の夕、プリタムシン氏、スワミイ氏一行が着京する予定となっていた。この日、朝から物凄い烈風が日本本州を襲っていた。烈風は午後に入ってますます激しくなった。砂塵のために帝都の空は暗くなった。夕方からポツポツ雨さえ降り始めた。天候の関係上、一行は本日の飛行を中止するであろうと判断していたところ、午後、一行は上海を出発して東京に飛行を急ぎつつある報に接した。九州か大阪の飛行場に着陸して天候の回復を待つであろうと判断し念願していた矢先、またまた夕方になって羽田の飛行場から、一行の飛行機は一五○○頃伊勢湾の上空を通過東進したという電信連絡以後、電信断絶した旨の電話があった。夜に入って烈風は暴風雨に変じた。大阪、四日市、岐阜、浜松各地の飛行基地に打電して、機の行方を探索する措置を八方に講じた。不吉な予感が私の脳裏をかすめた。IIL使節団一行の面にも万一の不吉を予想する不安の色が張った。しかし、どこかの飛行場に着陸しているに違いないという願いにすべての希望をつないだ。その夜徹宵各飛行基地からの電報を待ちわびたが、夜明けになっても消息が得られなかった。
盟友プ氏やアグナム大尉や大田黒氏の面影が暁方、疲労にまどろむ私の夢を襲った。昨夜の一抹の不安は、増大して不吉な黒い影が増大した。正午には東海地区のどこの飛行場にも一行の飛行機が着陸していないことが明らかになった。大田黒氏の夫人が愛児を抱いて九州から夫君と再会を楽しむために上京してきていた。私はモ大尉始め四名のIIL使節一行と大田黒氏の夫人に、最悪の事態を予想しなければならないことを宣言しなければならなくなった。身を切られるような悲痛な想いである。
夕刻になって名古屋方面から、昨夕、雨雲の中を北の山の方に難航する飛行機の爆音を聞いたという情報があった。絶望の算は決定的となった。直ちに東海、北陸、関東各県に遭難機捜索の指令が発せられた。
各方面から得た情報によると上海から興亜院中支連絡部の中山大佐が、このIIL使節団の専用機に便乗して、悪天候を無視して飛行を強要したもののようであった。この大佐は要談のためにこの日夜、東京に到着する必要があったからである。この飛行機は正午ごろ、九州の太刀洗飛行場に着陸して給油を行った。飛行場当局者天候の険悪を告げて飛行の中止を勧めたが、中山大佐は自分個人の都合のために東京への飛行を操縦士に強要したということが判った。いわば一日本将校のわがままな便乗と飛行の強要とが、この惨事の原因となったのである。昨年以来、志を共にし、死生を同じくして民族の解放に苦闘してきた畏友・・偉大なる印度の愛国者を、今まさに、この運動の偉大なる発展を画せんとする矢先に、このような原因のために失った日本の責任は、真に重大である。印度三億五千万の同胞に対しても、おわびの言葉もない次第である。四人の盟友、ことにプ氏やアグナム大尉のありし日の偉大なる功績と麗しい情が走馬灯のように回顧され、哀惜と自責の念とで、私の悲嘆をますます深刻にした。
引用終わり