アチェ民族とオランダの抗争
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
三月の初め、軍司令部から次のような電話がかかってきた。
「スマトラのアチェから、日本軍との連絡のために重要な密使がピナンに到着し、ピナンの軍当局から送致してきたから藤原機関に引渡す。直ちに案内者を司令部に派遣せよ」と。
私は山口中尉からこの報告を聞いて雀躍するほどうれしかった。マレイから潜入したFメンバーが潜入に成功し、しかもアチェ民族が、日本軍に呼応して決起する用意にありと直感したからである。この密使は中宮中尉に案内されて機関に到着した。一組の密使はトクムタ氏ほか三名からなり、二月十三日、ブサ団から派遣されたものであった。いま一組の密使はトンクアブドルハミッド氏ほか三名からなり、二月二十日、ブサ団から派遣されたものであった。いずれも日本軍当局に、アチェ民族のオランダに対する抗争状況や、日本軍に対する忠誠の誓いを報告し、日本軍の急援を要請する使命をもってきた決死の密使であった。・・・・
密使の報告によってわれわれは初めてアチェの驚くべき情勢を知ることができた。またスマトラのオランダ軍に関する最新の情報を詳細に知ることができた。密使の語るスマトラの情勢は次の通りであった。
1940年5月、オランダが独逸に蹂躙された当時から、アチェ人の間に民族運動の意識が復活し始めていた。日、独、伊三国同盟以来、緊迫する太平洋情勢に即応して、オランダ政府は色々の戦時の法令を造ってインドネシヤ民族を防衛に結束せんとしたが、これらの措置はかえって民衆の反感を募らせつつあった。12月8日、日本軍がマレイに進撃を開始すとのニュースを聞くや、ブサ及びブサ青年団の幹部は、全アチェの各支部に遊説して「いついかなる土地に日本軍の進駐をみる場合においても、直ちにこれを歓迎し、かつ日本軍の要求するいかなる援助をも与うべし」との宣伝を開始していた。ハンリマサキ氏とトクニア・アリフ氏が指導に当った。
12月中頃にはトクニア・アリフ邸でブサ団の会長トク、モハマッド、ダウッド、ブルウェー氏始め、首脳五名が密会して堅い誓約を交わした。その誓約は、「回教および民族、祖国に忠誠をを誓い、大日本政府に忠誠を尽くし、共にオランダに抗争し、ブサの名において暴動を起こす」との内容であった。
アリフ氏が総顧問に任命された。一方ブサ青年部長トンク・アミルアルムジャヒド氏も、全アチェ各支部に遊説を開始して「日本軍に対する忠誠、日本軍進駐を迎えた場合の全面的協力、オランダ軍との抗争準備」等を極秘裏に指令しつつあった。日本軍のピナン占領の報は、この反オランダの抗争気運を一段と高めた。・・・・
このアチェの不穏な気運に対応して、オランダ当局の圧迫は日々強化され、対立感情は、ますます悪化する情勢にあった。
一月十六日、セランゴールの海岸から二隻のボートに分乗して出発したFメンバー、サイドアブバカル君一行はスンガイスンビフンとバグンアビアピに到着した。彼等は、F機関から供与された武器や、日本軍の資材一切を海中に投げ捨て、避難者を装った。一行は上陸と共に直ちに捕えられ、厳重なる身廻品の検査と尋問ののち、メダンの警察署に送監された。・・・・・・
私がサイドアブバカル君に与えた指令は、直ちに大アチェ州ブサ団の首脳に報告された。日本軍との完全な連絡に勇気倍加した。ブサ首脳は、この指令に基づいて全面的活動を開始した。サイドアブバカル君一行は、ブサ団の巧妙な斡旋による郷里の保証状のお陰で、それぞれ郷里の警察署に送致され、再尋問の上釈放された。・・・・
同君はまず親友回教師ジャミル君をたたき起こした。・・・・
ジャミル君はアブバカル君の忠誠心を心から感謝した。そして
「アチェ民衆のオランダ政府に対する反抗気運は日一日と高まりつつある。既に反乱の準備すら進んでいる。藤原機関の指令は必ず実行できる。君は日本軍とアチェ民族との紐帯だ。君こそアチェ民族に対する神の使いだ。ただオランダ政府のアチェ人に対する偵諜は厳重巧妙をきわめている。書面の連絡は絶対戒めねばならぬ。すべて信頼し得る密使でやろう。もし、誰かつかまっても断じて他の同志に累を及ぼさぬように、皆の幸福のために、一人で責任を負って死ぬことを誓わねばならぬ。・・・・」・・・・
アブバカル君のこの活動に並行して、マレイから潜入した同志二十名は中、北スマトラの全域にわたって同様の宣伝活動に奔走した。一行が釈放されてから僅か十日も経たぬ二月下旬には、全アチェはFメンバーとして、F機関の指令に決起する態勢に向った。・・・・
この頃、オランダ政府のアチェ民衆に対する猜疑と圧迫はますます強化された。日本軍の進撃に備えて、貯蔵もみ、稲田や交通通信、油田等の破壊班の活動が開始されんとする情勢に立ち至った。 オランダ当局のこの企図はますます民衆の憤激を高め、これを阻止するための抗争決起の決意を促進した。アチェの情勢は無装備の民衆とオランダ軍隊、警察との全面的抗争に発展せんとする重大なる危機に当面しつつあった。もし日本軍の来襲が遅れたら、アチェ民衆の生命と財産は失われてしまうかも知れない。この急を伝え、早急に日本軍の来援を要請するために二回にわたって密使が派遣されたのであった。
2008年07月02日
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