2008年06月30日

モハンシン将軍

印度独立運動史初の革命軍誕生

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 モハンシンINA司令官は、作戦中の投降兵を加えて五万五千の印度人将兵を掌握することとなった。そしていよいよ、INAの組織に着手した。長い苦難の印度独立運動史に、初めて、独立抗争必須の利器―革命軍をもつことになったのである。投降将校の中には、ギル中佐、ボンスレー少佐(何れも英本国の士官学校、陸軍大学校修学者)等二十名近い先任将校がいた。モ大尉の統率には容易ならぬ困難が伏在することとなった。モ大尉は、INA将校の推薦と諒解を得て、少将に昇進し、革命軍INA司令官としての貫録を整えた。私も「将軍」として、心から敬意を表した。彼は戦後も印度でモハンシン将軍と愛称されている。英軍から反逆者として位階を剥奪されたにかかわらず。

 18日正午、シンガポール印度人有力者三十名以上の共同主催のもとに、F機関、IIL、INAの幹部と昨日投降した印度人将校の有力者の招宴が、印度人商工会議所において催された。定刻会議所におもむくと沢山の紳士淑女が私達の到着を待っていてくれた。ゴーホー、メノン両氏も見えた。受付の紳士から生花の花輪を首にかけられた。美しい淑女が胸に清らかな花を飾ってくれた。一昨日まで六十日にわたってすさまじい戦場を馳駆し、夜を日に次ぐあわただしい仕事に忙殺されて、戦塵を洗う暇もなかったぶしつけな私達には、一寸とまどうような雰囲気であった。私は主催者側に促されて、先ず一場の挨拶を述べた。
このように和やかな、更に有意義な宴を、占領地の紳士淑女が挙って、占領早々の軍人のために催していただくような例は古今にも、東西にも、そう例は少ないと思います。このことは日印両民族の友情の宿縁を証明するものであり、またプ氏やモ大尉の祖国と民族を愛する犠牲的奉仕の結果を示すものだと思います。日印両者がいままで握手を妨げられていたことは神の思召しに背くことであったと思います。私は六十日間にわたって激戦と電撃的進撃の果てに、いまここに着いたばかりの武人でありますので、戦塵にまみれ、服装も応対もまことにぶしつけでございます。しかも久しくこのような珍味にお目にかかる機会に恵まれませんでした。今日は紳士淑女の御好意と御理解に甘えて、六十日間のカロリー補充の意味で、野戦並の行儀で、うんと沢山御馳走を頂きます。お許しを願います。どうか他の日本人もこのようにぶしつけだとは誤解しないで下さい」と軽いスピーチを終えた。・・・

 招宴を終えて本部に帰ると、16日、中宮中尉とYMA同志によってチャンギーの監獄から救出されたYMA会長イブラヒム氏がオナム氏に案内されて私を待っていた。縁なしの眼鏡をかけた30才位の青年であった。風采の整ったみるからにインテリゲンチャ―を思わせる紳士であった。昨日まで二か月も監獄に収監されていたようなやつれは見えなかった。
 イブラハム氏は、F機関の好意ある支持と同氏救出の労とを私に対して厚く感謝したのち、今後日本軍の好意ある支持指導のもとに、日本軍とマレイ人との協力に奉仕致したいと考えている旨の挨拶があった。・・・
19日、私達が永久に感銘おくことのできないファラパークにおいて、シンガポール印度人大会が開催された。数万の群衆がパークを埋めた。生花と美しい布で飾られた演壇が設けられていた。客賓の中に貴婦人のごとく美しいラキシマイヤー夫人も見えた。支部長ゴーホー氏が起って満場を沸させるような熱弁を振った。祖国とシンガポール印度人同胞を愛する氏の熱情は嵐のように群衆の感激をそそった。ゴーホー氏、プ氏に次いで、モ大尉も、私も相次いで壇上に立った。かくてシンガポールのIIL支部は結成され、泰、マレイをおおうIILの組織が完成した。この日モ大尉の発意によって、マレイ各地のINA全力をシンガポールに集結する措置が決った。米村少尉にその任を授けた。いまやシンガポールはIILとINAの本拠となり、これを基点として新しい発展に進む段階に入ったのである。
 あたかもこのとき、東京の帝国議会において、東条総理が大東亜諸民族の解放、比島に対する独立供与の誓約、印度の独立支援に対する帝国の熱意を披歴する歴史的演説を行った。タイピン以来、私が熱望していたことの一端が実現した。願わしきはその忠実なる実践である。惜しむらくはその内容の抽象的であることである。

 ジョホールパルの兵站病院で加養中のハリマオの病状は思わしくなかった。無理が重なったからであろう。私はハリマオをシンガポールの兵站病院に移させることとした。そして再び軍政監部の馬木少将を訪ねてハリマオを軍政監部の一員として起用することを懇請し、その約諾を得た。一日私は生花を携えて病院にハリマオを見舞った。将兵と枕を列べて病床に横たわっていた。その寝室の周囲には五人のマレイ人が、貴人にかしづく従僕のように敬虔な態度でうづくまっていた。その眼は連日連夜の看護で充血していた。私は谷君の枕元に寄り「谷君」と呼んだ。ハリマオは眼を開いて、私を発見するや反射的に起き上ろうとした。私は静かに制しながら、「気分はどうか、本当に御苦労だった。苦しかったろう。よくやってくれた。早く治ってくれ」と見舞いと慰労の言葉を述べると、ハリマオは「十分な働きができないうちに、こんな病気になってしまって申訳がありません」と謙虚にわびた。私は「いやいや余り無理をし過ぎたからだ、お母さんのお手紙を読んでもらったか。よかったね」というと、ハリマオはうなづいて胸一杯の感激を示した。両眼から玉のような涙があふれるようにほほを伝わって流れた。私は更に「谷君、今日軍政監馬奈木少将に君のことを話して、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったぞ」と伝えると、ハリマオはきっと私の視線を見つめつつ「私が!谷が! 日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに!」と叫ぶように言った。ハリマオのこの余りの喜びに、むしろ私が驚き入った。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
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