2008年06月27日

英印度兵が日本軍下に

印度独立運動史に残るフェラパーク・スピーチ

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は印将兵に祖国解放を訴えるモハンシン将軍、一人おいて藤原氏
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引用開始
 午前10時から私はプ氏やモ大尉と共にファラパークにおもむいた。パークの四周から雲霞のごとく印度兵の部隊がい集した。正午ごろには、旧競馬場のこの広いパークが、印度兵で埋まるように見えた。競馬場のスタンド二階の英ハント中佐参謀が、各部隊の指揮官(印度人将校)から到着部隊名と人員の報告を受けていた。・・・
 ハント中佐の側で、立派な風貌と偉躯のシークの中佐が懇切に各部隊に指示を与えているのが私の注意を引いた。・・・・そのうち、モ大尉はその中佐を私のもとに伴って来て、私に紹介してくれた。この中佐こそ、ギル中佐であった。・・・私はモ大尉のこの愛国的活動に対してギル中佐の熱烈な支援を希望した。・・・・

 直ちに接収の儀式に移った。マイクを通じて、全印度兵はスタンドに面してき坐を命ぜられた。将校は最前列に集合した。ハント中佐はマイクの前に立った。パークを埋める印度兵が整列を終わって、スタンドのハント中佐に全神経を集中した。中佐はきわめて簡単に、かつ事務的に「印度兵捕虜をこのときをもって日本軍に引渡すことになったから、爾後は日本軍当局の指導に基づいて行動すべし」という意味の数語を語ったのち、私に面して人員名簿を手渡した。その数は五万を上回った。これをもって全印度将兵は日本軍の手に接収された。・・・・
 かねてのプランに基づいて、私はまず壇上に立ってマイクに身を寄せた。十万の視線が私の両眼に注がれた。水を打ったような静粛に帰った。私の左に英語通訳に当る国塚少尉が、更にその左隣りにヒンズー語通訳に当るギル中佐が立った。日本軍を代表してこの高壇に立ち、五万になんなんとする印度人将兵に私の使命の理想を宣言する歴史的行事に当ろうとするのである。全身の血がたぎるような感激を覚えた。・・・・
 私は改めてマイクの位置を確かめた後、全印度人将兵を見渡しつつ「親愛なる印度兵諸君!」と呼びかけた。数万の視聴は私の口もとに注がれた。語を継いで「私は日本軍を代表して英軍当局から印度兵諸君を接収し、諸君と日本軍、印度国民と日本国民との友愛を取結ぶために参ったF機関長藤原少佐であります」と自己紹介の前言を述べた。・・・
 私が東亜の共栄体制を打ちたてんとする日本の理想を説き、印度独立支援に対する日本の熱意を宣明するや、五万の聴衆は熱狂してきた。シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族の桎梏の鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう、と私の所信を述べるや、満場の聴衆は熱狂状態に入った。拍手と歓声とでパークはどよめいた・・・・

 プ氏の率いるIILと、モ大尉の統率するINAの偉業を紹介し、日本軍の全面的支援の態度を宣明するや、全聴衆は一斉に私の後ろに立っている両氏に視線を変えて割れるような拍手を送った。・・・・
 そもそも民族の光輝ある自由と独立とは、その民族自らが決起して、自らの力をもって闘い取られたものでなければならない。日本軍は印度兵諸君が自ら進んで祖国の解放と独立の闘いのために忠誠を誓い、INAに参加を希望するにおいては、日本軍捕虜としての扱いを停止し、諸君の闘争の自由を認め、また全面的支援を与えんとするものである、と宣言するや、全印度兵は総立ちとなって狂喜歓呼した。幾千の帽子が空中に舞い上がった。・・・・この私の演説は偉大なるINA生誕の歴史的契機となった。プ氏とモ氏の演説と共にフェラパーク・スピーチとして印度独立運動史に記録される歴史的宣言となった。・・・・

 私に次いでプ氏とモ大尉が相次いで壇上に立った。いずれもヒンズー語をもって演説を行った。IIL、INAの独立運動の趣旨と今日までの活躍を報告し、両氏自ら祖国の解放と自由獲得の戦いの陣頭に立って、国家と民族の礎石たらんとする烈々たる決意を披歴した。自由と独立のない印度民族の生けるしかばねに等しい屈辱を解明し、百数十年にわたる隷属印度民族の悲劇を看破し、いまこそ天与の機に乗じて祖国のために奮起せんことを要望した。肺腑を絞る熱弁の一句一句は満場の聴衆を沸騰させた。
 鳴りもやまぬ拍手、舞い上がる帽子、打ち振る葬隻手、果ては起ってスタンドに押し寄せんとする興奮のどよめき、正にパークは裂けるような感激のるつぼと化した。数万の全将兵は既にモ大尉と共に祖国の解放に挺身せんとする決意に燃えあがっていた。フェラパークの大会はかくして盛会裏に終わった。

 私はギル中佐とモ大尉に、印度人将校の全員とホールで会談せんことを申出た。ギル中佐は直ちに将校の参集を命じた。私達は円陣に席を取って、全将校の質疑や希望をフランクリーに聴取して回答せんことを提議した。日本の印度独立支援の真意、日本の援助の内容、INAと日本軍との協力関係、INAの編制、装備等色々の質問が活発に提示された。・・・・
 大会終了と共に、私とプ氏は本部に引上げた。シンガポール市の印度人代表ゴーホー氏とメノン氏との会談が予定されていたからである。両氏共にプ氏から既にF機関の性格、任務や私のことについて詳細に承知していた。IILやINAのことについても知っていたし、今日のフェラパークの壮観についても承知していた。私もまた両氏の声望についてあらかじめ紹介を受けていた。私達は初対面の挨拶のときか十年の知己に再会するごとく、心を許し合い打ち融け合っていた。くどくどしい説明を要しなかった。ゴーホー氏の、印度人同胞の自由と名誉と利益とを身をもって庇護せんとする熱誠と強い意志やその実行力、更に高い政治的識見とささいなことにこだわらない度量、厚い情義に私は深い感銘を受けた。この会談において両氏のIIL支援、ゴーホー氏のシンガポールIIL支部長就任、19日の印度人大会開催のことが協議された。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
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