ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はファラパークに接収された45000人の英軍印度兵士

引用開始
2月16日朝、軍参謀長の認可を受けて、われわれの本部はシンガポールに推進された。・・・・山下軍司令官特別の意向によって、一般部隊はすべて市街に入ることを禁じられていた。憲兵と一部の補助憲兵部隊だけが治安維持のため市街に入ることを許されていた。市街の入口には関門が設けられて、部隊は勿論単独兵の通過さえ厳重に取締られていた。・・・・
この日の午後、司令部やINA本部、スマトラ青年団が続々到着した。
夕刻、フォートカニングの英軍司令部でシンガポール接収に関する日英両軍の委員会が開催された。この委員会において、F機関が接収すべく命ぜられた印度兵捕虜は、明17日午後フェラパークの公園において接収することが打合せられた。
英軍委員の報告によると、印度兵の数は五万に達すべしとのことであった。白人捕虜もほぼ同数と概算された。シンガポール島の英軍総兵を三万、そのうち印度兵の数は一万ないし一万五千と判断していたわれわれ日本軍委員は、英軍委員のこの報告に接して顔を見合せて驚いた。英軍の兵力は実に日本軍の兵力に数倍していたのである。もし英軍が日本軍の兵力と弾薬欠乏の状況を知悉して、更に数日頑強な反撃を試みたならば、恐るべき不幸な事態が日本軍を見舞ったであろうと直感して慄然とした。
次いで私の胸裏をかすめた懸念は、現在わずかに四名の将校と、十名余りのシビリアンしか擁していない貧弱なF機関のメンバーで、何らの準備もなく、五万の印度兵を接収し、その宿営、給養、衛生をどんな風にして完うするかということであった。しかも、F機関本来の任務を完遂しなければならない。本部に引上げる自動車の中で明日に迫ったこの難問題に頭を悩ました。・・・・・
そののち、私はモ大尉、プ氏と会合して明日の接収儀式に関して打合せを行った。17日午後一時、英軍代表者から正式に印度兵捕虜を接収したのち、先ず日本軍を代表して私が、次いでINA司令官モ大尉、IIL代表プ氏の順序で演説を行うこととなった。更に印度人将校一同との懇談を実施したのち、計画に基づいて兵営に分宿することとした。
五万の印度兵に対する我々の演説の重大性を認めあった。この演説を徹底させるために、優秀なマイクロフォンを探し求めることとした。・・・
この夜は、私は演説の草稿の筆をとった。私の草稿に盛られた演説の要目は
A、日本の戦争目的の一つは東亜民族の解放にあり、
B、日本は印度の独立達成を願望し、最大の同情を有し、その運動に対し誠意ある援助を供与する用意を有す。また日本は印度に対し一切の野心なきことを宣言す。
C、シンガポール陥落は印度の独立達成のため絶好の契機たるべし。
D、日本軍はIILならびにINAの活動に敬意を表し、その運動を援助しつつあり、また両者が戦争の間現地印度人あるいは、彷徨する印度兵を救護せし功績は絶賛に値す。
E、日本軍は印度兵諸君を同胞愛の友情をもって遇す。
F、諸君のうち祖国解放のためにINAに参加を希望する者に対しては、日本軍は捕虜の取扱いを停止し、その運動の自由を認め、また可能なる一切の援助を供与す。
G、日本軍は印度兵捕虜をモ大尉を通じて管理す。
H、日本軍は諸君の給与向上に最善を尽す。ただし、予想外に迅速なる作戦の進捗により、糧まつその他の集積まだ十分ならざるをもって、もし不十分なることあらば、右のやむを得ざる事情に原因するものなること諒解ありたし。
この草稿の起草が、ようやく終了したのは夜半に近かった。国塚少尉が翻訳に着手したとき、モ大尉が走行として私の事務所に尋ねてきた。
モ大尉は憂色を浮べながら、「只今部下の報告によると、INA宣伝班の一名が英軍将校に逮捕監禁されていることが判った。反逆罪で処断されるかも知れない。血盟の同志を見殺しにするに忍びない。いかにしても救出したいと思うので相談にきた」との申出であった。私は、モ大尉の部下に対する愛情、同志に対する友義が身にしみてうれしかった。私は自らモ大尉の愛する部下、われわれの同志の一人を救出すべく決心した。監禁している某英軍指揮官の名も明らかになっていた。既に降伏の調印が終了しているが、昨夜まで死闘を交わした英軍であり、まだ武装を解除されていない英軍のことである。一抹の危険が予想された。しかし時間を遷延すると同志の身の上にどんな不幸が起きるかも知れない。躊躇を許さないのである。私は直ちに英軍部隊に乗り込んで行って直接英人指揮官に会って交渉する決意をとった。モ大尉は私の身の上に万一の危険が伴うことを憂慮して押し止めた。しかし若い将校に委ねたり、日本軍部隊や憲兵に依頼することは、かえって紛糾の原因になる恐れもあったし、時間の空費が懸念されたので私の決心を変えなかった。モ大尉も私に同行することを申出たのでINA護衛兵を連れて、逮捕の状況を目撃していたINA宣伝班員の案内によって英軍部隊に乗り込んだ。私は英軍の方から手を出すまで決して暴力を用いてはならない旨を随行者に厳戒しておいて、早速英人大隊長の室に入って行った。
大隊長に、「昨15日降伏の調印が終わっているにかかわらず、日本軍の支援しつつあるINAの兵を逮捕監禁するのは穏当でない」と厳重に抗議した。大隊長は、私の抗議を受諾して件のINA宣伝班員の身柄を穏便に渡してくれた。何らの紛争もなく処理できたことが嬉しかった。モ大尉は釈放された同志を抱擁して涙を流して無事を喜んだ。かたわらで見るも麗しい光景であった。本部に引上げた時、モ大尉は私に対し心から感謝してくれた。
引用終わり
毎日新聞問題の情報集積wiki
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TBSの不祥事年表
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朝日新聞の不祥事年表
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NHKの不祥事年表
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面白いサイトをご紹介頂きありがとうございました。
知らないことが一杯で、今更ながらマスコミの馬鹿さ、反日の程度に腹が立ちます。
まずは日本人が、もうこんな輩を相手にせず無視の姿勢をとることでしょう。
一人で猿芝居をさせておくとか。