シンガポール大英帝国の降伏
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
ランプールから本部のFメンバーの全員が到着していた。神本君が沈痛な面持で私を待っていた。ハリマオ(谷君)が1月下旬ゲマス付近に潜入して活躍中、マラリヤが再発して重態だという報告であった。ハリマオはゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、マレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、マラリヤを再発しながら無理をおしていたのが悪かったのだという説明であった。私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。
一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。「絶対に病死させるな」と。私は懐に大切に暖めていたハリマオのお母さんの手紙を神本君に手渡した。そして読んで聞かせてやってくれと頼んだ。この手紙は、大本営の参謀からイッポ―で受け取ったのであった。
手紙は、ハリマオの姉さんが達筆で代筆されていた。手紙には、ハリマオが待ち焦がれていた内容が胸が熱くなるほど優しい情愛とりりしい激励とをこめて綿々と綴られていた。
「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見致しました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いて下さるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を樹てて下さい。母を始め家内一同達者です。毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと家のことはちっとも心配せずに存分に御奉公して下さい」という文意が盛られていた。まだF機関ができる前の昨年四月以来、ハリマオと一心同体となって敵中に活動し続けてきた神本君、ことに情義に厚い熱血漢、神本君はこの手紙をひ見してハラハラと涙を流した。「この手紙を見せたらハリマオも元気がでるでしょう。必ず治して見せます」といって、ゲマスに向って出発して行った。・・・・
14日の夜は終夜にわたって激戦が続いた。15日の朝になってもこの状況は変わらなかった。負傷者が戦車に収容されて続々と後退してきた。日本軍第十八師団はケッペルスの兵営と標高150mの丘を占領し、第五師団も墓地を奪取した。近衛師団は、シンガポールの市街の東側に侵入してカランの飛行場占領に成功した。日本軍の飛行機はピストンのようにクルアンの飛行場から爆弾を抱いて英軍陣地にたたき込んだ、英軍の抵抗は頑強をきわめた。よくもこれだけ弾丸が続くものだ。銃身も砲身もよくも裂けないものだと思われるほど英軍の射撃は猛烈をきわめた。
これに反して、弾薬の欠乏に悩む日本軍の砲声はりょうりょうたるものであった。火砲や弾薬の欠乏を、将兵の肉弾で補強しなければならない日本国の無理と将兵の痛苦が、今更のように痛感された。ただ、島の上空を完全に制圧している日本軍の空軍とシンガポールを睥睨する気球が士気を鼓舞する唯一のものであった。焦燥の気分が司令部にもみなぎっていた。折も折、英軍の軍使が投降を申出てきたという報が電撃のように戦場に伝わった。次いで、午後4時からブキテマのフォード工場で日英両最高指揮官の降伏交渉が開かれるという報が舞い込んだ。一同欣喜した。心なしか、日本軍第一線方面の銃砲声が俄かに活気づいてきた。私は直ちにこの報をINA、IIL宣伝班に伝達した上、軍司令部に急いだ。
午後6時フォード会社の事務室で山下将軍とパーシバル将軍の劇的な会見が始まった。およそ1時間にわたる会談ののち、「イエス」か「ノー」かと叱呼して詰め寄る山下将軍の最後の一言で、無条件降伏が遂に成立した。
山下将軍が、敵将パーシバル将軍にきびしい詰問に及んだいきさつはこうであった。会談早々、降服文書に眼を通したパ将軍が、通訳のワイルド少佐(終戦後大佐に昇進、日本軍将兵に対する戦犯追及で復讐の鬼となって活躍した。)を通じて、若干の質問を許して欲しいと申出た。山下将軍はその願いを容れた。その質問は、曰く、「日本軍のシンガポール市内進入を待って欲しい。秩序維持のため英軍千名を残置させたい」曰く、「戦闘中の全部隊に敵対行動停止の命令を伝達するためには24時間を要する。その時間の余裕を与えよ」曰く、「収容所に妻子の同伴を許されたい」等々、日没も迫る死闘の戦場に、涯しない事務的質問が繰り返された。
無条件降伏の会議を巧みに停戦交渉にすり変えつつあるのじゃないかとも疑われた。立会いの日本軍幕僚が誰云うとなく、この交渉の発展に疑念と異議を山下将軍に訴えた。応揚に、敵将の質問に応じていた山下将軍も「そうだ、先ず、無条件降伏の諾否を求むべきだ。質疑はその後、幕僚間で事務的処理によるべきだ」と思い到ったのであろう、しかも弾薬の欠乏、死傷の続出等々、日本軍の危機は一刻の猶予も許されない焦慮があった。それがこの発言となった。息が苦しくなるような喜びの興奮のうちにも、武運拙なく降伏を受諾しなければならなくなった敵将の心中が思いやられて哀愁がさそわれた。
先ほどまで、重砲の射撃を観測していたブキパンジャンの日本軍気球に、「敵軍降伏」の大文字が吊るされた。全線の将兵はこれを仰いで感きわまって相擁して泣いた。方々の山々から万雷のような万歳のどよめきが戦場の夕闇を震撼し続けた。大英帝国が不落を豪語した大東亜経倫の牙城がついえたのだ。全く夢を見ているような気がする。
引用終わり
2008年06月25日
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