2008年06月20日

ハリマオとの初会見

ハリマオの母親宛ての手紙

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・

 そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。

その手紙には
 お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
 豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。

 というような切々胸を裂くような文章が盛ってあった。神本君が手を取って綴らせたものであろう。田村大佐も私もこの手紙を拝見してもらい泣いた。彼はマレイ無頼の徒に加わって、匪行を働くようになってから、両親の勘当を受け、両親は居たたまれずに、内地に引き上げていたのである。私は早速この手紙を参謀本部に託送して、開戦前に、谷君のお母さんから返信を届けてもらうように手配を依頼した。私もその夜、谷君に片仮名の手紙を書いて同君を激励した。特に谷君が慈母にあてた手紙にあふれる清らかで健気な心に対して、私の感動を綿々と綴り、今後の活動に当っては、マレイ人の真の味方となり、彼等の解放に挺身するよう願った。いよいよ日本軍の一員となって活躍するからには、同君の子分泰人やマレイ人に対しても、今後絶対に原住民の生命や財貨を犯させないよう、堅く守ってもらいたいと強調した。私はいままでたった一度、この手紙を通じて同君と通信する機会があっただけだった。計らずも、今日この戦場で、谷君会えることになった。神の引き合わせであろう。しかし谷君が待ちわびているお母さんからの返信が、まだ私の手に届いていないのが、いま谷君に会う私にとって残念であった。(実その翌日、参謀本部の尾関少佐がはるばる携行してくれたのであった。もう二日早く届いておったら)

 米村少尉は私達を民家の一室に案内した。家の庭には、七、八人の頑強そうなマレイ人がうずくまっていたが、私を認めると丁寧に頭を下げた。谷君の子分だな、と直感して、丁寧に答礼した。まつ間もなく、米村少尉は戦塵に汚れた一人のマレイ服の青年を伴って部屋に入ってきた。私は立ち上がって彼を入口まで迎えた。米村少尉が「谷君。機関長だよ」「機関長殿。谷君です」と訴える口調で私達二人を引き合わせた。ケランタン州をまたにかけ、数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年であった。そうしておどおどするほどに慎ましやかな若人で、谷君と教えられなかったら、これが日本人と思えないほど立派にマレイ青年になり切っていた。私は谷君の挨拶を待つ間ももどかしく、「谷君藤原だよ。よいところで会ったなあ。御苦労。御苦労。ほんとうに苦労だった」と、彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬虔なお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。・・・・
 そして改めて「谷君。君のお母さんあての手紙は確かにお届けしたよ。参謀本部からの電報によると、近々お母さんからの返信をお届けするといってきているから、きっと近いうちに到着するだろう。お母さんはお元気らしい。お母さんは君の願いを許してくれることは勿論、君がこうしてお国のために挺身しているのを聞いてどんなにか喜び、誉に思っておられることであろう。君のこのたびの働きは、戦場に闘っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」というと、谷君は私の顔を見上げて眼に涙を浮かべながら、「有難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男子になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」としみじみ述懐した。次いで私は「君のこの立派な活動は、きっとお国のお母さんに私から知らして上げよう」と約束した。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:21| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物
この記事へのコメント
お久し振りです。
暫く来なかったですが、知らなかった話ばかりで勉強になります。
文章コピーしたいくらいですよ!
Posted by こと at 2008年06月23日 00:06
こんにちは。
ハリマオというと、映画かテレビに「怪傑ハリマオ」というのがあったらしいという印象しかなく、実在の方だとは知りませんでした。こんな興味深い史実があったのですね。
なんだか切ないところもあって、いかにも映画化されそうですし、有名になりそうですが、今私を始め知らない人が多いのはなぜなのでしょうね。
Posted by milesta at 2008年06月23日 01:18
こと様
お久しぶりです。
私も子供の頃に「ハリマオ」という名前や漫画があたように覚えていますが、実在とはこの本で初めて知りました。
華僑に妹を殺されてから、あちらで暴れ廻ったようですね。
Posted by 小楠 at 2008年06月23日 07:40
milesta様
>>映画かテレビに「怪傑ハリマオ」というのがあったらしいという印象

私も同じです、私の頃は漫画でしたが。
実在とは全く思っていませんでした。
彼の行動を考えると、華僑に誘拐され惨殺された妹の仇討が、彼を匪賊的な行動に走らせた動機のようです。その後この本のようにF機関と日本軍に大変効果的な協力をしたことで、日本にとって伝説的な一人の英雄になったのでしょうね。
Posted by 小楠 at 2008年06月23日 07:45
 私は以前テレビで写真を見た事があったので、実在と知ってました。
 確か陣内孝則さん(字が違ったかな)でリバイバルしてた気が。
Posted by こと at 2008年06月24日 08:15
こと様
実物の写真を見られましたか。それはよかったですね。
本人の事跡なども放映で説明があったのでしょうね。
見たかったなー。
Posted by 小楠 at 2008年06月24日 14:09
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