泰ピブン首相の失踪
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
12月4日の午後、武官室電報班の江里という青年(大川周明博士の塾出身)が一片の電文をわしづかみに息せき切って補佐官室に飛び込んできた。大本営からの飛電である。帝国政府はこの日の午前会議において、万死一生の決意すなわち英、米両国に対する開戦を決定したのである。ついに運命の大戦争は決意された。X日は12月8日の予定と。
海南島に待機していたマレイ攻略軍の大船団は、この日、泊地を出航して直路南泰沖に向かうのである。
泰、仏印国境には、近衛師団がスタートラインに勢ぞろいした競馬のように詰めかけている。・・・・
マレイ攻略軍の船団は三日四晩も英軍の眼の光っている仏印沖を抜けて南支那海を泰湾に進航するのである。天祐か、奇蹟でもなければ、英軍の発見を免れることはできないであろう。バンコックの無線諜報は、マレイ沖からボルネオ沖にかけて英軍機の頻繁な哨戒行動を立証している。日本軍はこの奇蹟の成否に、緒戦の運命を賭けているのである。もし洋上に発見されたら、マレイ英空軍とシンガポールに不沈を誇る英極東艦隊必殺の攻撃を受けること必至である。もしそんなことが起きたらその結果は,想うだに慄然たるものがある。山下兵団の壊滅もあり得る。首そ両端を持する泰国の動向等は、この一事件だけでたちまち日本の敵になることは火を見るよりも明らかである。・・・・
12月お6日、いよいよ日本軍の船団がサイゴン沖に差しかかる日である。英軍哨戒の危険区域に入るのだ。この日、サイゴンの軍司令部から連絡の将校がきて、七日午後を期して、泰国政府に日本軍進駐を要求する最後通牒を提出することを武官と打ち合わせた。そして、泰国がこの日本の要求を容認するか否か・・・いわば泰国が日本の味方であるか、敵国であるかを確認するために、12月8日の払暁、武官室の上空に飛ばせるわが飛行機に対して煙と布板の信号をするように打ち合わせて帰って行った。この夜もオリエンタルホテルで外人達の和やかな会食や舞踏が常日のように行われていた。明くれば12月7日である。・・・
この朝、思わざる奇怪な変事が捲き起った。午前九時頃であったろうか、田村大佐と格別に親密な間柄といわれている泰国政府の閣僚ワニット氏が、突然血相を変えて武官室の宿舎に飛び込んできたのである。そして非常な興奮の面持で応対に出た田村大佐にろくろく挨拶もせず、いきなり「ピブン首相は泰仏印国境において、泰国外務省官吏に対し日本軍が加えた重大な暴行侮辱事件に憤怒し、昨夜来失踪してしまった。誰にも行方を告げずに。これは首相の貴官あて置き手紙である」とて一通の封書を手交してそうこうと風のごとく立去ってしまった。武官室の一同はこの報を聞いてしばらく茫然自失の態となった。・・・・
この奇怪なる国境事件というのは、泰仏印国境画定のため派遣されていた泰国外務省の一課長が、12月5日頃、国境付近に行動中であったのを、たまたま国境に詰めかけて進撃の大号令を待機中であった近衛師団の一将校が、その行動をスパイ行為と速断して件の官吏を捕縛した上、言語不通からか、事情も身分もたださずに散々打擲した揚句<12月6日に釈放した。件の官吏は釈放されるや否や、直ちにこれを政府に報告してきたというのである。
それにしてもピ首相が失踪するとは何となく理解のできない行動である。その裏面にはもっと深い政治的魂胆が含まれているのではなかろうか。・・・・・
こんな突発事件のために、この重大な交渉が開始されたのは既に夕刻に近かった。坪上大使の官邸で泰閣僚との間に極秘裏に接衝が始まった。事実上ピ首相独裁の泰政府の閣僚は、ピ首相不在間に斯かる重大なる通牒に対し回答ができない旨答えて要領を得ない始末となった。・・・・
西太平洋における英米両国との戦争状態の宣言・宣戦の大詔・東条総理大臣の訓示・真珠湾の攻撃成功・南泰奇襲上陸の成功など相次ぐ驚天動地のニュースがマイクを通じてほとばしるように流れ出た。一同は名状し難い興奮に、頬を紅潮させ、まぶたをうるませて武者ぶるいをした。前後に奏される国家君が代や陸海軍の軍楽は皆の興奮を一層かきたてた。午前11時、大使の官邸から急使が飛んで来て、ピ首相の出現、交渉の成立を報じた。また近衛師団が早くもバンコックの郊外に到着しつつあることを知らせた。昨夜来の不安な空気は一変して、歓喜の興奮に変わった。私は再び使を派遣して、その推移をプ氏に通報し安心を乞うた。いまや私達は公然と往来し、会談し得る時に際会し得たのである。
12月9日、バンコック、ルンビニエン公園には日本軍が充満した。軍紀も至厳である。ピ首相がラジオで日泰協力を宣言してから、日本軍と泰人との感情は台風一過の後のように穏やかになった。・・・・
私は田村大佐の許可を得て、明10日シンゴラ飛行場に出発する決心を定めた。私は、直ちにこの私の決意をプ氏に通告して意向を確かめた。プ氏は双手を上げて同意した。10日朝7時、武官室で勢揃いが約された。徳永補佐官が親切に飛行機の出発準備を手配してくれた。山口、中宮、大田黒、北村の四名が出発準備に奔走した。・・・・
明くれば、われわれの晴れの門出の12月10日である。空には断雲はあるが切目に青空が見える。午前7時、プ氏一行六名が自動車で武官室に乗りつけた。アマールシン氏やバンコックの同志と思われる印度人が別の自動車でこれに続いて入ってきた。純白の印度服に身を固めたプ氏の眉字には晴れやかな、しかも固い決意のほどがうかがわれた。
引用終わり
2008年06月10日
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