絶望的となった日米交渉
ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
引用開始
11月28日朝、いつものように大使館に出かけて坪上大使と暫時面談してから、武官室に立ち廻った。補佐官室に入ると、徳永補佐官がつと立ち上がって私に目くばせしながら階下の応接室に誘った。・・・補佐官が声を潜めて私に漏らした内容は、私の予想とは別個の重大な内容であった。それは「日米交渉がいよいよ絶望状態に立ち至ったことと、開戦は12月上旬たるべきこと、田村武官の任務であり、私が補佐に任じているマレイ方面の工作は開戦と共にすべて南方軍総司令官寺内大将に引継がれ、更に同大将から第二十五軍司令官山下対象の区処下に工作を実施すること。私及び私のメンバーは南方軍総司令部に転属され、更に第二十五軍司令官のもとに派遣されてこれを担任することなどの予想であった。かねて予期していたところではあったが、現実にこのように最後の「断」のときが迫りつつあることを聞くと、名伏し難い興奮が全身を突っ走った。
私は、即座に二つのことが思い浮んだ。その一つは、プ氏と早々活動の具体的方策を協議しなければならぬことであった。その二つは、開戦と同時にプ氏らIILメンバーと私達F機関のメンバーが如何にして南泰の戦機に間にあうように馳せ参ずるかということであった。私は、その場で徳永補佐官にダグラス一機の準備を要請して快諾を受けた。私はその夜、プ氏との会談を応急手配した。山口君が奔走して、三菱支店長の宿舎を借用するように交渉を遂げてくれた。新田支店長は心よく承諾してくれた。大田黒君がプ氏に本夜の会談を申し入れた。私の気のせいか、武官や補佐官の緊張が、自から武官室全体に反映して、この緊迫した空気と街を行く泰人や支那人の平和な気配とはそぐわない懸隔が感ぜられた。私達は今マレイ方面に対する活動を策しつつあるのだが、脚もとの泰の動向がどちらへ転ぶかわからないのだ。大使や武官の活動により、開戦にあたって泰国に日本軍の平和進駐を認めさせ得る見込みが次第に多くなったと見られていたが、複雑な泰国の政情にかんがみると、必ずしも信をおけるものではない。もし泰の動向が逆転でもしたら、日本人はことごとく拘留されるだろう。そうなると、私を始め私のメンバーは、ことごとくバンコックや南泰の監獄に押し込められて活動ができなくなる。私はそのことを予想すると気が気でなかった。
ただちにサイゴンに引き上げて、作戦軍と共に南泰に上陸するのが一番確実のようでもあるが、この方法には最も大きな難点があった。それはプ氏始めバンコックのIILメンバーを同行することが不可能だからである。プ氏の南泰脱出は、合法的には泰政府の認可を見込めないし、非合法手段では既に注目されていると思われる節があるので一層危険であった。たとえ可能であっても、時間的に遅過ぎた。(日本軍の飛行機にプ氏を乗せることは最も危険だから)しかも開戦確定の公報があったのではない。田村武官といろいろ協議したが、結局名案は無かった。運を天にまかすよりほかはないということになった。
その夜三菱支店長の社宅で、プ氏との会見に入った。好都合に支店長はその夜外出してくれた。私は日本軍の企図を察知されないよう用心深く、先ずプ氏に日本と米英の関係がとみに緊迫しつつあって、いつ米英の攻撃を受けるかも知れない危機に直面していることを述べた。そして、米英の攻撃を受ければ日本軍も即時に応戦する準備を急いでいることと、その場合マレイが日本軍の攻撃目標となるべき予想を語った。そして、いよいよわれわれの計画を実施すべき時機が意外に早く到来するかも知れないと告げた。そして、プ氏にわれわれの活動の具体的計画を協議する必要を述べた。
プ氏の顔は、緊張に次いで会心の面持に変わった。その夜から、私達は連夜四回にわたって研究と協議を重ねた。私はプ氏の意見を傾聴した。プ氏は熱烈にそして率直に所信を述べた。喜ばしいことにプ氏と私とは既に思想の一致、意志の疎通ができていたので、プ氏の意見は私の構想とほとんど一致した。私達が作った計画は、作戦の具体的計画やその推移が予想もできないので、抽象的なものとならざるを得なかった。・・・・
12月1日の夜、これらの覚書は日英両文をもって完成され、田村・プ両氏により署名された。私達はほとんど徹宵連夜でこの協同の計画を完成したとき、重なる疲労も打ち忘れ偉大なものを産んだ歓喜に浸った。そして相携えて両民族の陣頭に立ってこれを完遂せんことを最も真摯に誓いあった。決意と誓約を固い固い握手を通じて取り交わした。
この日は、あたかも東京においては御前会議が開催され、日本が運命の大戦争を決意した日であった。
そして、真珠湾を奇襲すべき日本海軍機動部隊主力は、パールハーバーに接近しつつあったし、マレイに進撃する日本陸海軍は海南島に集結し、満を持して待機していたのであった。われわれはそれを知る由もなかったが、実に太平洋は、大戦争の渦に巻き込まれる大転換の日であったのである。
この覚書の写しは直ちに山口中尉に携行されて、サイゴンの南方軍総司令部及び第二十五軍司令部に提出され、その認可もしくは諒解を得た。更に別の一部は大本営陸軍部に送付された。
私はプ氏と共にこの画策に肝胆を砕きつつ、一方マレイ青年連盟に対する連絡や、南泰F機関のメンバーに対する連絡指令など幾多の難題を処理していった。プ氏も密使を南泰に派して指令を与えた。
バンコックのFメンバーは、いよいよ出陣の装束に心を使わねばならない段階となった。
引用終わり
2008年06月09日
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