ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部でINA(インド国民軍)将兵とくつろぐ筆者

引用開始
時計は、約束の午後九時に十分前のところを指していた。物静かな路地の奥に目的の家があった。その家の軒先に一人の白布をまとった男が突立っていた。ぎょっとした二人が、素知らぬ素振りで行き過ぎようとした瞬間、件の男は、Yamashita と呼びとめた。われわれは彼がプ氏の案内人であることを知って安堵した。私は山下浩一と変名していた。初会の場で、プリタムシン氏にこの変名を名乗って置いたのである。
われわれは黙々として彼の後に従った。細い路地を入って漬物部屋のような異様な臭気のする納屋の二階に案内された。雑然とした物置の隅に、汚い小さな机と三脚の板張り椅子、縄張りの粗末な寝台が一つだけ備えてあった。そこには先日のプ氏が私を待っていた。待ち構えていたようにプ氏は例の合掌の挨拶ののち、私に握手の手を差し伸べた。プ氏は先ず「こんな汚いところに案内をして失礼を致します。しかし用心にはよい場所です。下に見張りを立ててありますから安心してお話し下さい。」と述べた。私は実のところ、あまりのむさ苦しさと異様な臭気とに閉口していたが、しいて「そんなご心配は無用です。こんな用心のよいところが見つかって何よりです」と答えて、彼の気苦労を解くことに努めた。・・・・・
私は先ずプ氏からバンコックの印度人の情勢について次のようなことを聞いた。
バンコックにはIILの他に,泰印文化親善を標榜する印度人団体がある。この団体は比較的穏健な国民会議派系の思想団体であり、その中心人物はスワミイ(バンコック大学の教授)、ダース両氏である。この団体はドイツ大使館とも関係をもっているし、当地印度人の実業家の支援もあってIILに比しはるかに有力である。この団体は、シーク族を主体とするIILと反目的関係にあることなどであった。
この団体の指導者ダース氏は、サハイ氏らと共に日本において反英運動に関係していた人で、私は今年の春頃東京でサハイ氏と共に面接したことがある人である。私はダース氏の指導する文化団体とIILとの反目的関係は非常にデリケートな問題だと直感した。またこの反目の結果、IILの活動が暴露しやしないかと心配した。プ氏に両団体との提携の可能性を質したが、相入れない関係にあることが観察された。私は旧知であるダース氏の文化団体とは別個に接触したい魅力を感じないでもなかったが、このことはプ氏を初めIILメンバーによい感じを与えないことや、日本側とIILとの関係が暴露する恐れを感じたので、両者の提携は、いよいよ開戦と決ってから斡旋することがよいと思った。
次いでIILは南泰のハジャイ、ヤラ、マレイ東北海岸都市のコタバルなどに若干の同志が散在していることや、プ氏は毎月一回布教を装って南泰に赴き、これら同志と連絡し、またIILの宣伝、パンフレットを配布しつつあることを承知することができた。プ氏の話からマレイ国境方面トレンガン州とケダ州の英印軍の中には、相当印度兵が多く、プ氏は南泰の同志を通じて、この国境の英印軍内印度人将兵に対して宣伝工作を努めている。しかし、英軍は国境警備の印度兵を頻繁に交代するので、まだ軍隊内に同志を獲得するまでに至らないことが判った。しかし、英印軍印度兵は心密かに英国に対し反感をいだいていて、プ氏の宣伝ビラなども、彼らは好意をもって受け取っている実情である。だからもし日本軍がマレイに進撃し、プ氏等がそれにこん随して行って、直接彼らに宣伝すれば相当反響呼応するものが出ると、自信の程をほのめかした。
私はプ氏の運動が、まだマレイの内部特に英軍内の印度兵に浸透していない実情を承知していささか焦燥を覚えた。彼は暗に日本の対米決起を切望し促すような口ふんを漏らしたが、私はこの彼の期待に添うような回答を与えることを避けた。しかし、私はプ氏に、一般情勢の緊迫を説明してマレイ英印軍内印度兵に対する宣伝を促進するよう勧告した。更に私は、彼から今後の運動に関し、彼の抱負を聞くことができた。それは彼はやがて日英戦争勃発の必然性(その時機はまだ相当先のことだと考えているように見えた)を信じ、その時には、日本軍の援助を要請して英印軍内の印度将兵や泰、マレイ、ビルマ各地の同志を糾合し、印度独立軍を創設して闘争したいという抱負を語った。またその際にIILの運動を世界的に展開したい希望をも披歴した。
私はプ氏のこの抱負に心から共鳴した。また協力を約束した。更にプ氏は私に対して、先ずIILと在ベルリン、ボース氏との連絡斡旋や東京放送を通ずる反英独立の対印放送について協力を希望した。
その頃ボース氏の放送はプ氏の最大関心事のようであった。なお東京にあるブラタップ氏や上海の同志に対する連絡通信の託送なども依頼された。・・・・
翌日武官に会談内容を報告し、その要旨は大本営に報告された。太平洋の情勢は米・英・蘭の対日石油禁止等急テンポに緊迫しつつあるように感ぜられた。プ氏の南泰出張と入れ替わりに南泰から神本・田代両氏が相次いでバンコックに来て、その報告を聴取することができた。
田代氏の華僑工作は私の見通しどおり、大きな期待をもつことは無理のように思われた。両氏が南泰に帰ると、土持、中宮、山口、瀬川、滝村、石川らの諸氏と増淵氏が、相次いで東京からバンコックに到着した。私はかねての腹案通り、IILとの連絡は私自ら当たることとし、山口、中宮、石川、大田黒君を私の補佐のためにバンコックに残した。その中、中宮君は日高洋行の社員として、石川、滝村両君は武官室の書記として配置についた。
引用終わり