ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はF機関メンバー

引用開始
その日から身分を秘してバンコックに入る研究と手続きが始まった。私と山口中尉は参謀本部からの交渉で、バンコック日本大使館の嘱託ということになった。米村少尉はタイランドホテル(日本人経営)のボーイということに。土持大尉は大南公司の社員に、中宮中尉は日高洋行の社員に、滝村軍曹は武官室書記に手配された。石川君はのちほど追及することになり、私と山口中尉がまず29日の飛行機で先発することになった。
9月20日、私は門松中佐の紹介で増渕佐平という一紳士に引き合わされた。もう60歳にも近く、見るからに温厚でいかにも円熟した紳士で、私には慈父を見る思いがした。・・・・
私は当時33歳であった。その他の将校はいずれも25歳に満たない若い人達であった。・・・・
大使館差廻しの自動車で、私はタイランドホテルに落ち着いた。日本人経営のホテルで、止宿人も日本人ばかりであった。言葉のできない私はほっとした。しかし反面、顔見知りの日本人にでも出くわしたら、身分がばれてしまうことを恐れて気が気でなかった。食道にも娯楽室にも出ずに、自室に引きこもることにした。翌早朝、自動車を呼んで私は武官の宿舎に急いだ。・・・・
食後武官の居室に案内された。大佐は私の差出した参謀長の訓令を熟読したのち、おもむろに口を開いた。
「君は私のもとでIILとの連絡、田代氏の担任している華僑工作と神本氏の担任しているハリマオ工作の指導を補佐してもらう。しかし諜報に関することは補佐官(飯野中佐――陸大同期生)が直接担任する.差当りはバンコックの雰囲気になれるように当地の情勢を観察することだ。近日IILのプリタムシン氏に引き合わせよう。また南泰にいる田代、神本両氏を招致して合わせるように手配しよう。
想察に難くないことと思うがバンコックは英・米・支・独の諜報戦の焦点でもあるし、日本側からも色々の軍官民が入り込んで、政治工作に、情報に、資源獲得に必死の活動を展開している。
泰国政府は列国の策動対してきわめて神経過敏になっている。その政府要人の中にも親英派があって、その動向は微妙そのものである。日本側の策動に対しても、厳しい偵諜の眼を光らせている。もし君の仕事がばれたら、この仕事自体が駄目になるばかりではない。日本の作戦準備が暴露するし、泰国の親日動向を逆転させてしまうなど、由々しい結果を招く恐れがある。防諜に特に注意しなければならない。
特に日本人仲間に対して注意が肝要である。日本人の間になるべく顔を出さない方がよかろう。特に用件のある場合のほか武官室にも顔を出さない方がよい。時々大使館に顔を出すだけでよい」
私は武官のこの命令と注意を有難く拝承した。・・・・
日本と米・英・蘭の対立が尖鋭化するに及んで、南支那海の凹角にあって、列強角遂の檜舞台とは縁の遠かった夢の国、この泰国が俄かに列強抗争の焦点に浮び上がってきた。列強の外交や諜報や謀略の渦巻く戦場となった。米・英・蘭の経済封鎖に当面した日本が、戦争重要資源、米・ゴム・錫・皮革を得る道は泰と仏印しかなかった。華僑の手を通じて、マレイの錫やゴムまで吸収することができた。泰は日本の米びつとなった。
英米のためには、仏印に勢力を拡大しつつある日本軍今後の重大な動向を探知し、防止するには、泰国が最も重要な基盤となった。また日本の重要資源取得を妨害するためにも眼を光らさねばならないところとなった。・・・・
こうしてみると泰国の動向は日本にとっても、連合国にとっても最も、重大な関心事であるのは当然であった。由来、英国はその歴史的、地理的優位によって、政治的にも、経済的にも他の列国に比べてこの国に優位を占めていた。・・・・
このようにして私がバンコックに到着したころの泰国は、日本と英・米・重慶との間にサンドウィッチとなり、政治的にも、経済的にも、軍事的にもこれら列国の烈しい抗争の渦中におかれ、文字通りゆらぐ泰国であった。その他に資源と情報を狙う独逸、自己防衛のため泰の情報をさぐる仏印当局、バンコック華僑を100%利用しつつある重慶の策動などが混線して、一層渦紋を激しくしていた。いわゆる娘一人にむこ八人という塩梅であった。これに対抗して日本もこのころバンコックに重要資源を買いあさる商社の社員や熱帯医学の研究を使命とする軍医や一般医学者、それに曰く鉄道指導官、曰く仏僧、いわく泰国に売り込まれた武器の使用を指導する軍事指導官、いわく某々公司など、どっと押しかけて得態の知れない日本人の活動で渦巻いていた。そしてこれらの日本人は、たがいに身分や使命を秘して他の日本人の鑑定に腐心し、自己の防衛に努めていた。しかも不心得なものが、ときどき数少ない日本人経営の食堂で酩酊して、大言壮語したり、日本人の評判を声高く語ったりするものがあった。こんな振舞いが日本人の間から秘密がばれる一番危ない原因となっていた。
あとで判ったことだが、後日INA最先任将校となった優秀な人、ギル中佐(元バンコック駐在印度大使)も英軍諜者となって私と同様バンコックに潜入し、鉄道ホテルの一室に陣取って活動していた。しかも彼は私が協力しようとするプリタムシンと同様シーク族であったのである。
引用終わり